東方閃電はどこに由来するのか

「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

人生の明るい道を歩んでいます

2019-09-28 18:46:36 | 文章

人生の明るい道を歩んでいます

以前、私は世界のトレンドを追い掛けるような人で、遊蕩生活に身を任せてしまいたくて肉の快楽だけを欲していました。私はよく友達と一晩中カラオケに行ったり、夜中に車を乗り回したり、海に出て釣りをしたり、美味しい食べ物を探して世界中を旅したりしていました。自分の周りにいる他の人達を見ても、皆が美味しい物を食べたり、高価な物を身に付けたり、贅沢を楽しもうとしていました。私は、人は人生においてこういったものを目指して働く必要があり、これが一生懸命働いて収入を得る必要がある理由であり、これが皆が持つべき人生の目標なんだと感じていました。こういったものを手にしてのみ、人生を無駄にしなくて済むと思っていました。 こういったものを手にするためなら、どれだけの距離を旅しても構わないと思いました。そして私は海を渡って渡米し、数年間苦労した後に、自分のビジネスを立ち上げたのです。私は自分の車と家を持っていました。私は夢にまで見た恵まれた生活を送っていたのです。私は毎日、満腹になり心が満足するまで食べて、呑んで、快楽を追い求めました。私はこういう生活を送ってのみ人生には意味があるのだと思っていましたが、それは私が終わりの日における全能神の働きを授かるまでの話しでした。私は、神の裁きと刑罰を受けてから初めて本当に意義深い人生というものを認識し、それから私は人生の明るい道を歩み始めたのです。

2016年の5月、私の妻が全能神の国に関する福音書をくれました。全能神の御言葉を読み、私は神の6000年の人類救済に向けた経営計画について知り、更には、全能神はイスラエル人をエジプトから導き出されたヤ―ウェ神であられ、十字架に釘付けにされて人類の罪を贖われた主イエスでもあられ、そして今、真理を説いて、人類に対する裁き、清め、救いの働きを実行されるために、肉として御戻りになられたということも理解できました。しばらく経たない内に、私は全能神教会で教会生活に参加するようになり、そこで兄弟姉妹達と出会ったのです。私は、彼らが皆誠実で、彼らの言葉には見せ掛けや、口先だけの社交辞令などがない事を知り、彼らと出会ったことで今まで感じた事がないような解放感を味わいました。

私は教会で集会に参加し始めた頃、とても新鮮な気分がして、兄弟姉妹達と共に集い、真理を追い求めて、いのちの性情の変化を遂げたくなりました。しかし、私はそれまでの間、肉の安楽を切望し、人生の快楽を求めていたため、彼らと一緒に集まって真理を追い求めたいという思いはあっても、これを気にせずにはいられませんでした。ある時、私は友達からディナーに招待されたのですが、それは教会の集会と同じ時間だったので、心の中で強い葛藤を感じました。 行くべきか、行かないべきか?私はこの決断についてこう考えました:“最後に出掛けて楽しんでからずいぶん経つよな。友達が今日私を招待するのは簡単なことでもないだろうから、行くべきかな。友達には毎日招待してもらえる訳でもないし、教会の集会は次回にすればいいか。” こうして、私は用事があると断言して、教会の集会に行く予定を変更してディナーに出かけたのです。私達は食べて、呑んで、カラオケにまで行ったのですが、帰宅途中、私は心の中では何の幸せも感じていなかったのです。私は、心の奥底で、説明できないような虚しさと罪の意識まで感じていたのです。 私は過去を振り返ってみました。私が友人達や他の村民達と食事をしていた時、ディナーのテーブルでは全員がいつになく誠実に私と接してくれていたのですが、私の知らない所ではどうやって私からお金を騙し取ろうかと頭を悩ましながら悪巧みをしていたのです。私は彼らの相手をしながらとても疲れてしまいました。私はどうしても自分の関心事について話せる人が見つけられなかったのです。今日、私は出掛けて、満足するまで呑んで、食べて、友人達を満足させることも出来ましたが、私はこれから一体何を得たのでしょうか? 私は虚しくて、心細くなり、神を失望させてしまったような気分になり、自分の兄弟姉妹達にも申し訳ない気持になりました。

しかし、心に感じるこの虚しさと自責の念を以てしても私を肉の快楽から解放することは出来なかったのです。私は、依然として心の中では遊蕩生活や肉に属するものに身を任せてしまいたいと思っていたのですが、神は私の追い求めることに関する誤った考え方を正すために、実際的に様々な出来事をご用意して下さり、環境をご計画して下さったのです。国慶節が近づいていた時、私の妻がこう言って提案をしてきました:“シンプルなお祝いをしてから、残った時間で神の御言葉をもっと読んで、神の家族の動画を見ましょう。そしたら、真理をもっと授かることが出来るし、神の御救いの恵みを理解することが出来るわ。” しかし、私は妻の言葉を真剣に考えず、代わりに元々計画していた通りに記念日の祝いの準備を始めたのです。私は道のりを慎重に選び、マーケットに行って必要な食材とその他の物を全て購入しました。私は妻と一緒に海辺に行って、二人でこじんまりとバーベキューをすることにしたのです。国慶節の当日、私は妻を連れて車で楽しく出発しました。しかし、事は計画通りには進まず、道がずっと渋滞していた上に、旅の途中でGPSが誤動作を起こしていたため私達は間違った道を行っていたことに気が付いたのです。目的地まで行くのは大変で、やっと海辺に到着した時も、風がとても強くてバーベキューが出来ませんでした。こうして、私の妻は引き返して家に帰ろうと言ったのですが、私はそうしたくありませんでした。私は運転を続けてバーベキューが出来る近くの公園を探そうとしつこく言い張って、他の3つの公園に行きましたが、その全てが人でいっぱいだった上に、駐車スペースが無かったのです。これでやっと、私はしぶしぶ引き返し、自宅に向かって運転し始めました。家路はさきほど同様に大渋滞していました。私達は、元々昼食にバーベキューをしようと出発したのですが、既に夕方の4時だというのに未だ何も作れていなかったのです。私達はもう腹ぺこでした。通常なら、私は自分が正しと感じて、自信に溢れているところなのですが、今回は、腹も立たず、何も言いたいことがありませんでした。私はただ静かに座って気が晴れないまま自宅に向かって運転しました。その時です、私の前にいた車が急ブレーキをかけたので、私も素早く急ブレーキをかけました。前の車にはぶつからずに済みましたが、私達は後ろから追突されてしまったのです。幸い、誰にも怪我はなく、車の表面がかるく凹んだだけで済みました。この事故が起ったのは神の許しによることだと分かっていた私は、この運転手を非難などせずに、ただ運転を続けました。そこで私は、“入念に計画したのは全部無駄な努力になってしまったなあ。計画してても予期せぬことがあったら対応しきれないってことも、全ては神が御用意して下さっているってことも本当なんだな。今日は本当に外出して人生の快楽にふけようとするべきじゃなかったな。自分の気質を頼りにするんじゃなかったよ!” と思いました。

帰宅した後、私と妻は神の御言葉の中からこの数節を一緒に読みました:「旧約聖書時代の神の働きや神の言葉の記録を、神話や伝説として取り扱う人々はますます多くなっている。人々の心は、神の威厳と偉大さに対して、また神が存在し、万物を支配しているという教義に対して無関心になっている。人類の生存、そして国家と民族の運命はもはや彼らにとって重要ではない。人は飲食と快楽の追求にしか関心のない虚しい世界に生きている。神が今日どこで働きを行っているのか、あるいは、神が人の終着点をいかに支配し、定めているのか、それを自らすすんで探し求める者はほとんどいない。」(『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より)「人々が世界を見渡すと、彼らの心は惹きつけられ、多くの人はそこから抜け出すことができない…進歩しようと努力せず、理想もなければ、あなたはこの邪悪な波によって押し流されてしまうだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「実践(2)」より)全能神のこの御言葉は世界のトレンドの本質を分かり易く、明瞭にして下さりました。世界のトレンドというものは、ただ単にサタンが人類を誘惑して堕落させるため利用しているものなのです。こういった物は人を破滅させるための罠であり、計略なのです。サタンは食べることや呑むこと、快楽を追い求めること等、肉が欲するものを利用して人を騙し、束縛するのです。人の心はこういった肉に属するものに取りつかれてしまうと、肯定的なものを追い求めなくなってしまい、神から増々疎遠して行き、結果的にはサタンによって破滅させられ、捕らえられてしまうのです。私は、神の御言葉を読んで、追い求めることに関する自分の見解はその全てが完全に間違っていたのだと気が付きました。私の関心事が食べることであれ、呑むことであれ、肉の快楽を追い求めることであれ、人の上に立てる生活を求めることであれ、こういったものの全てはサタンが人類を堕落させた結果なのです。私は、自らの実体験により、人がこういったサタンに属するものを追い求めると、人は増々堕落していき、増々ずぼらになり、放蕩していくのだと確認しました。それはただ単に、人の貪欲さ、身勝手さ、邪悪さ、そして不実さを悪化させていき、その人達は罪の中に生きることとなり、普通の人間性を失ってしまうのです。 人がこういったものを増々楽しむようになっても、こういったものをどんどん手にすることが出来たとしても、結局は虚しいままとなるのです。人がこういったもの全てを手にしても、神の前に来ることが出来なければ、その人のいのちは結局無駄になってしまい、意味もなければ、価値もないものとなってしまうのです。人は、神の前に来て、神を信じ、神を敬って初めて適切な生活を送る道を歩んで行き、人はその時初めて虚しく、邪悪な生活から自らを解放することが出来るのです。これを踏まえ、私は自分の生活の仕方を変えて、生活の正しい道を歩む決心をしたのです。

私は、自分の兄弟姉妹達が神のために積極的に労力を費やしている所を見た時、そしてそれぞれの本分を尽くすことと有意義な人生を送ることに対する彼らの情熱を見た時、私も同じものを追い求め、神の御要望に従った真の人の生き方を熱望するようになりました。これを踏まえ、私は、通常の集会への参加に加えて、自分自身の本分を尽くすための時間も欲しくなりました。この時、教会は私にいつくかの本分を用意してくれたのです。私は教会から2人の姉妹をある場所へ車で連れて行き、翌週彼女達を迎えに行って欲しいと頼まれました。 最初にこの本分が私に任された時、私は喜んでそれを引き受けました。しかし、この本分を私に割り当てた兄弟姉妹達が去った後、私はこれについて考え直し始めた上に、“困ったなあ、この姉妹達を連れて行く日は僕の休みの日じゃないか。しかも、来週ピックアップしに行く時は凄く早起きしなきゃいけなくなるし、移動距離は問題じゃないんだけど、あの道はすぐ渋滞起こすのが問題なんだよなあ。車が少ない朝早くに行くのがベストだけど、帰りに長時間渋滞に巻き込まれるかもしれないなあ。渋滞の中で座ってるだけじゃ時間の無駄になるだし、せっかくの休日が台無しだよ。。。” と後悔までし始めたのです。私がこう不平を漏らしているのを聞いた妻が私にこう言って交流してくれました:“本分を尽くすってことはあなたが思っていたほど単純なことじゃないのよ。間違いなく真理を実践することが伴うの。真理を実践するってことは、肉に背くってことよ。それは、あなたが苦難を経験して、犠牲を払うってことよ。考えてみてよ、あなたは今まで遊びにいっては呑んで、食べて、快楽を求めることが出来ていたから、疲れた日の後に楽しい思いが出来なくなって一言も文句を言わなかったでしょ。でも、あなたは、今せっかく本分を与えてもられるようになったのに、それに自分のフリータイムを使って困難のある道を歩むはめになったからって、心の中ではこれをやりたくないって思ってるのよ。この本分は、表面的には兄弟姉妹達があなたに割り当てたもののように見えるけど、これは特定の誰かのために尽くすものじゃなくて、実際には神に御満足していただくため、神の愛に応えるために尽くすものなのよ。この本分は今日、あなたに与えられたもので、神があなたを引き上げて下さっているの、これは神の愛があなたに舞い降りてきているということなのよ。あなたはこれを大切にして、初日に後悔が残らないようにしないとだめよ。” 妻は、私にこう言った後、神の御言葉のこの節を読んでくれました:「あなたが行うすべてはあなたが一定の代償を努力で支払うことを要求する。実際の困難がなければ、あなたは神も満足してもらうことはできないし、神に満足してもらうことに近づくことさえなく、それらは空虚なスローガンに過ぎなくなる。これらの空虚なスローガンは神に満足してもらうことができるだろうか。神とサタンが霊的領域で戦う時、あなたは神に満足してもらうためにどうすべきか、どのように固く証しに立つべきだろうか。あなたは自分に起こることのすべては大いなる試練であり、その試練の時に神があなたの証しを必要とすることを知るべきである。外面的には大したことではないように見えるかもしれないが、これらのことが起こると、あなたが神を愛しているかどうかが示される。愛していれば、あなたは神への証しに固く立つことができるが、神への愛を実践に移さなければ、これはあなたが真理を実践しない人であること、あなたには真理もなくいのちもないこと、あなたは無用の物であることが示される。人々にすべてが起こるのは、彼らが神に対する証しに固く立つことを神が必要とする時である。当面、あなたには重要なことは何も起こっていないし、あなたは重大な証しはしていないが、あなたの毎日の生活の詳細はすべて神への証しに関連している。」(『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より)

私は、全能神の御言葉を読み終えた時、そして私の妻の言葉を聞き終えた時、神がこの本分を私にお与え下さったのは、私が神を満足させて苦難に耐えられるか否かを見るための本当の試験であったのだと気が付きました。しかし、私は、自分の肉の欲するものと個人的な損得だけを考慮し、苦しんで犠牲を払う意思もなく、その代わりに不平ばかり言っていることを明らかにしていたのです。私は、自分が非常に利己的であることに加え、自分の心の中では呑むこと、食べること、その他の快楽を含めた肉の喜びが神よりも高く位置づけされていたことが分かったのです。 私は食べるため、呑むため、快楽を求めるためなら自分の所有物の何を費やしても、どんな犠牲を払っても全く構いませんでしたが、神のために自分の時間を費やすことを要する本分を与えられたとたんに、私は自分の損得を判断するようになり、神に御満足していただくために真理を実践しようという意思も持てていなかったのです。このように考えて行動していたのでは、私はサタンからあざ笑われ、神の前で神の証言が出来るようにもならないでしょう。こういった事柄を理解した後、私は素早く神の前に行き、私が神の前で神の証言をし自分の置かれた霊的な戦いでサタンを打ち負かすために、確実に肉に背きサタンに従うことを止められる意思をお与え下さるよう祈りを捧げました。私は、本分と実際に協力することに対する自分の態度を改めた後、神の祝福を実際に目にしたのです。私が姉妹達を連れて目的地に向かっていた時も、彼女達を迎えに行った時も、大きな渋滞は起きなかったのです。それは私の想像を完全に超えるもので、私の観念を本当に覆されてしまったのです。私は、初めて、本分を尽くすことで得られる平安と幸福を実感し、人が肉に背き、神の御満足していただくことを実践すると、神はその人に道を開いて下さるだけでなく、その人が真理を理解して神の御業を目にすることが出来るようにして下さることも分かりました。私は、突然、これはバケーションに行ったり、豪華な料理を食べることよりも私を幸せにしてくれていると感じたのです。この本分を休日に尽くすことは全く時間の無駄ではないことが分かったのです。むしろこれは非常に意味のあることなのです!

私はこういった実経験の中で、肉に背いて本分を尽くして神に御満足いただくことの美しさを自ら知ることができたのです。神がなされること全ては、私をサタンの邪悪な支配から救い、そうすることで、私が近い将来に真理を追い求める正しい道を歩むことが出来るようにすることなのだと分かりました。こういったもの全ては神の愛であり、神の御救いなのです。数日後、私は兄弟の一人から電話を受けました。私は彼から他の省に出向いて兄弟を数人迎えに行ってくれないかと頼まれ、何のためらいもなくそれを引き受けました。これを引き受けた後、私は不満を感じてはいませんでした。私はこの任務にとても前向きに、喜んで着手し、移動も最初から最後までスムーズに行きました。兄弟姉妹達をそれぞれの目的地まで無地に送って行った後、私は自分をとても誇らしく感じました。なぜなら、私が不純な心を持たずに、意欲的に自分の本分を尽くしたのはこれが初めてだったからです。これはまた、神の創造物が尽くすべき本分を実際に尽くすということは、人が行い得る本当に最も意義深いことであると私に教えてくれたのです。私はもう呑むこと、食べること、娯楽を求めることを望まなくなり、肉の欲する快楽を求めることもなくなり、真理を追い求め、受け入れ、実践し、近い将来に神を心から愛する人になることだけを望みました。 こういった私の生活における些細なことが私の気が付かない形で私を変えてくれたのです。私の生活はもう以前のように腐っても、堕落してもいません。私は変わり始め、物事に積極的に取り組むようになりました。これはまるで、私が人生の全く新しいチャプターを歩み始めたかのような感じがします。私は心の中で今まで感じたことがないような人生の美しさと喜びを感じ、全能神が私を人生の明るい道へと御導き下さったことに感謝しています。全ての栄光、全能神にあれ!

シェ・リー(米国)