東方閃電はどこに由来するのか

「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

キリスト教映画「心の解放」神の言葉によって私は嫉妬⼼を克服した 完全な映画のHD2018

2019-09-10 23:47:15 | キリスト教映画

 

キリスト教映画「心の解放」神の言葉によって私は嫉妬⼼を克服した 完全な映画のHD2018

鄭欣さんは、終わりの日における神の働きを最近になって受け入れた、新しい信者の一人です。彼女は頻繁に兄弟姉妹たちと共に集って、神の御言葉について交わり、神を讃えて讃美の歌を歌います。これは彼女に幸せと喜びをもたらします。しかしながら、彼女は傲慢なサタンの性質に支配されてしまい、他の姉妹は自分よりも早く進歩し、他の兄弟姉妹たちから尊敬され、誉められている一方、自分は彼らの称賛を得られないのを見ると、嫉妬の念を抱き始めます。集会で彼女はこの姉妹に競争意識を感じ始め、この姉妹を凌ぐことができないので、いつも否定的で弱気になっていきます。彼女の心は痛みでいっぱいになり、サタンに弄ばれる状態の中で生活しています。その後、一人の教会指導者が彼女を支え助けるために来て、神の御言葉について交わりの時を持ちます。神の御言葉の裁きと神の御言葉によって明るみに出されたものをとおして、彼女はやっと自分の嫉妬の根源を見つけ出し、傲慢になり、名声と利益を得ようと必死になり、自分勝手で卑しくなるといったような、自分の中にあるサタン的性質に対して徐々に憎しみを抱くようになります。彼女はまた神の義と神の支配について、少し浅い理解を得ます。鄭欣さんは自ら進んで神のご支配と采配に従うよう決意します。神の御言葉の導きのもと、彼女は最終的に自分の嫉妬心の束縛という足枷を振り捨て、彼女の心は解放を見出します。彼女は神の御言葉によって生きることの平安と喜びを体験します。

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神の最新の働きを知り、神の歩みに従う

2019-09-09 10:06:31 | 書籍

神の最新の働きを知り、神の歩みに従う

現在、あなたがたは神の民になることを求め、正しい道に全面的に入り始めるべきである。神の民になることは、神の国の時代へ入ることを意味する。今日、あなたがたは正式に神の国の訓練に入り、あなたがたの未来の生活は以前のように怠慢でいい加減ではなくなる。そのような生活では神が求める基準を達成することができない。緊迫感がないのであれば、それはあなたには自らを改善する意欲がなく、あなたの追求はまごつき混乱しており、あなたは神の心を満足させることができないということである。神の国の訓練に入ることは、神の民の生活を始めることを意味する。あなたはそのような訓練を受け入れる覚悟があるか。緊迫感を感じる覚悟があるか。神の鍛錬の下で生きる覚悟があるか。神の刑罰の下で生きる覚悟があるか。神の言葉があなたに臨み、あなたを試すとき、あなたはどう行動するのか。あらゆる事実に直面したとき、あなたは何をするのか。過去において、あなたはいのちには重点を置いていなかった。今日、あなたはいのちの現実に入り、いのちの性質の変化を求めなければならない。これは神の国の民によって達成されなければならないことである。神の民である者はみないのちを持ち、神の国の訓練を受け入れ、いのちの性質における変化を求めなければならない。これは神の国の民に対して神が求めるものである。

神の国の民に対する神の要求は次のとおりである。

1.神の委託を受け入れなければならない。つまり、終わりの日の神の働きにおいて語られたすべての言葉を受け入れなければならない。

2.神の国の訓練に入らなければならない。

3.神に動かされる心を持つよう求めなければならない。あなたの心が完全に神に向いて、正常な霊的生活があれば、あなたは自由の領域で生きることになり、それは神の労りと保護のもとで生きることを意味する。神の労りと保護のもとに生きるときにのみ、あなたは神に属すのである。

4.神によって得られなければならない。

5.地上で神の栄光の顕れとなければならない。

これらの五点はあなたがたへのわたしの委託である。わたしの言葉は神の民に向けて話されており、もしあなたが進んでこれらの委託を受け入れないのなら、わたしは強制しない。しかし、もしあなたが誠実に受け入れるなら、あなたは神の旨を行うことができるだろう。今日、あなたがたは神の委託を受け入れ始め、神の国の民になることを求め、神の国の民であるために要求される基準を達成することに取り組む。これが神の国に入る第一歩である。神の旨を完全に行いたいなら、これらの五つの委託を受け入れなければならず、これらを達成することができれば、あなたは神の心に適い、神は必ずあなたを大いに用いるだろう。今日重要なことは、神の国の訓練に入ることである。神の国の訓練に入るには霊的生活が関わる。以前は霊的生活について語られたことはなかったが、今日、あなたは神の国の訓練に入り始めるので、正式に霊的生活に入ることになる。

霊的生活とはどのような生活であろうか。霊的生活とは、あなたの心が完全に神の方に向き、神の愛に心を留める生活である。それは神の言葉の中に住む生活であり、心を占めるものはほかになく、今日神の心を把握することができ、そして今日聖霊の光によって導かれてあなたの本分を尽くす生活である。人と神との間のそのような生活こそが霊的生活である。今日の光に従うことができないならば、あなたの神との関係において距離が開いたのである。関係は絶たれたのかもしれない。そして、あなたには正常な霊的生活がない。神との正常な関係は、今日の神の言葉を受け入れるという基盤の上に築かれる。あなたには正常な霊的生活があるであろうか。神と正常な関係にあるであろうか。あなたは聖霊の働きに従う人であろうか。あなたが今日聖霊の光に従うことができ、神の言葉の中にある神の心を把握し、これらの言葉に入ることができれば、あなたは聖霊の流れに従う人である。聖霊の流れに従わなければ、あなたは間違いなく真理を追求しない人である。自らを改善する願いを持たない人々の中で聖霊が働く機会はなく、その結果、そのような人々は決して力を奮い起こせず、常に消極的である。今日、あなたは聖霊の流れに従っているであろうか。聖霊の流れの中にいるであろうか。消極的な状態から脱したであろうか。神の言葉を信じる人々、神の働きを基盤とする人々、今日聖霊の光に従う人々はみな聖霊の流れの中にいる。神の言葉が疑いの余地なく真実で正しいと信じるならば、そして神が語ることが何であろうと神の言葉を信じるならば、あなたは神の働きに入ることを追求する人であり、このようにしてあなたは神の心を満足させる。

聖霊の流れに入るためには、神との正常な関係を持たなければならず、消極的な状態からまず抜け出さなければならない。常に多数派に従う人々がいるが、そのような人々の心は神からあまりにも遠く離れてしまっている。彼らは自らを改善することを願わず、追求する基準はあまりに低い。神を愛することを求め、神によって得られることを求めることのみが神の心である。神の愛に報いるために良心のみを使う人々がいるが、これは神の心にはほど遠い。追求する基準が高ければ高いほど、いっそう神の心に調和する。正常な人、神を愛することを求める人として、神の国に入り神の民の一人になることは、あなたがたの真の未来であり、それは最高の価値と意義を持つ生涯である。あなたがたより祝福されている人はいない。なぜわたしはこう言うのか。それは、神を信じない人々は肉のために生き、サタンのために生きるが、今日あなたがたは神のために生き、神の旨を行うために生きているからである。あなたがたの生涯には最大の意義があるとわたしが言うのはこのためである。神によって選ばれた人々のこの集まりだけが、最も意義のある生涯を生きることができる。地上の誰もそのような価値と意義のある生涯を生きることはできない。あなたがたが神に選ばれ、神に引き上げられているために、さらにあなたがたへの神の愛のために、あなたがたは真の人生を理解し、最高の価値を持つ生活をする方法を知っている。これはあなたがたの追求が良いからではなく、神の恵みのためである。あなたがたの霊の目を開いたのは神であり、あなたがたの心に触れ、神の前に来る幸運を与えたのは神の霊であった。神の霊があなたがたを啓かなかったなら、あなたがたは神のどこが美しいかが分からず、神を愛することもできないだろう。それはひとえに神の霊が人々の心に触れて、彼らの心が神に向いたからである。あなたが神の言葉を享受しているときに、あなたの霊が動かされ、神を愛さないわけにはいかないと感じる時がある。あなたの内に大きな力があり、放棄できないものは何もないと感じる。このように感じるならば、あなたは神の霊によって動かされたのであり、あなたの心は完全に神に向き、あなたは神に祈り、このように言うだろう。「神よ。私たちは本当にあなたにより前もって定められ、選ばれました。あなたの栄光は私に誇りを与え、神の民の一人であることを光栄に感じます。私はあらゆるものを費やし、あらゆるものを捧げて、あなたの御旨を行い、私のすべての年月と一生の努力をあなたに献上します」このように祈るとき、あなたの心に神への終わりのない愛と真の服従がある。このような経験をしたことがあるだろうか。神の霊に頻繁に動かされると、人々は祈りの中で特に自発的に自らを神に捧げる。「神よ、私はあなたの栄光の日を見たいと願い、あなたのために生きたいと願います。あなたのために生きるより価値や意義のあることはなく、サタンや肉のために生きたいという望みは少しもありません。今日あなたのために私が生きられるようにしてくださることで、あなたはわたしを引き上げてくださいます」このように祈ったならば、神にあなたの心を捧げずにはいられず、神を得なければならず、生きている間に神を得ずに死ぬのは耐えられないと感じるだろう。そのように祈った後では、あなたの内に無尽蔵な力があり、あなたはその力がどこから来るのか分からない。あなたの心の中に無限の力があり、神はとても美しく、愛する価値があると強く感じる。神に動かされた時はこのようになる。このような経験をした人々はみな神に動かされたのである。神に頻繁に動かされる人々には、いのちに変化が起こる。決断を下すことができ、完全に神を得ようとする。心の中で神への愛はさらに強くなり、心は完全に神に向かい、家族、世間、複雑な人間関係や自分の未来への心残りはなく、一生の努力を神に捧げようとする。神の霊に動かされた人々はみな真理を追求する人々であり、神により完全にされる見込みのある人々である。

あなたは神に心を向けたであろうか。あなたの心は神の霊によって動かされただろうか。そのような経験をしたことがないならば、そして、そのように祈ったことがないなら、それはあなたの心に神の居場所がないことを示している。神の霊によって導かれ、神の霊に動かされた人々はみな神の働きを有しており、これは、神の言葉と神の愛がその人々の中に根付いたことを示す。このように言う人がいる。「祈るとき、私はあなたのように真剣ではなく、そのように神に動かされたこともありません。時々、瞑想し祈るとき、神は美しいと感じ、心が神によって動かされるのを感じます」人の心より重要なものはない。あなたの心が神に向いているならば、あなたの全存在が神に向いており、その時にあなたの心は神の霊によって動かされているだろう。あなたがたのほとんどにはそのような経験があり、ただ各自の経験の深さが同じではないということだけである。このように言う人々がいる。「祈りでは多くの言葉を言わず、ただ他の人々の交わりに耳を傾けますが、そうすると力が私の内に湧いてきます」これは、あなたが内面で神に動かされたことを示している。内面で神に動かされた人々は、他の人々の交わりを聞くと鼓舞される。感動的な言葉を聞いても心がまったく動かないのであれば、これは聖霊の働きがその人々の中にないことを示す。人々の内面には渇望がなく、それは決意がない証拠であり、従ってそのような人々には聖霊の働きがない。神に動かされた人々は、神の言葉を聞くと反応を起こす。神に触れられていなければ、彼らは神の言葉に与ることがなく、神の言葉は彼らに関係がなく、彼らは啓かれることができない。神の言葉を聞いて反応がなかった人々は、神に動かされなかった人々である。そのような人々は聖霊の働きがない人である。新しい光を受け入れることができる人々はみな動かされ、聖霊の働きを有している。

あなた自身を評価しなさい。

1.あなたは聖霊の現在の働きのただ中にいるか。

2.あなたの心は神に向いているか。神に動かされたか。

3.神の言葉はあなたの内に根付いたか。

4.あなたの実践は神の要求の基盤の上に築かれているか。

5.あなたは聖霊の現在の光の導きのもとに生きているか。

6.あなたの心は古い観念によって支配されているか、それとも神の現在の言葉によって支配されているか。

このような言葉を聞いて、あなたがたの内なる反応はどのようなものであろうか。何年もの間信仰してきて、あなたのいのちとして神の言葉を持っているか。以前のあなたの堕落した性質に変化があったであろうか。神の現在の言葉によって、いのちを持つことが何であるか、いのちを持たないことは何であるかを知っているか。これはあなたがたにとって明らかであろうか。神に従う中で最も重要なのは、すべては神の現在の言葉に拠らねばならないということである。いのちに入ることを求めているのであれ、神の心を満足させることを求めているのであれ、すべては神の現在の言葉を中心にしなければならないということである。交わり求めるものが神の現在の言葉を中心にしていなければ、あなたは神の言葉を知らない人であり、聖霊の働きを完全に失っているのだ。神が求めるのは神の歩みに従う人々である。あなたが前に理解したことがどれほど素晴らしく純粋であっても、神はそれを求めておらず、そうしたことを脇へやることができないなら、それは将来あなたが真理に入るときの大きな障害になるだろう。聖霊の現在の光に従うことができる人々はみな祝福されている。過去の人々も神の歩みに従ったが、今日まで来ることはできなかった。これは終わりの日の人々の祝福である。聖霊の現在の働きに従うことができ、神の歩みに従える人々は、神が導くところがどこであろうと神に従うのので、神に祝福されている。聖霊の現在の働きに従わない人々は神の言葉の働きに入っておらず、どれほど働こうとも、苦しみがどれほど大きくとも、どれほど右往左往しようとも、そのどれも神には意味がなく、神はそんな人々を賞賛しないであろう。今日、神の現在の言葉に従う人々はみな聖霊の流れの中にある。神の現在の言葉を知らない人々は聖霊の流れの外にあり、そのような人々は神によって賞賛されない。聖霊の現在の言葉から離れた奉仕は肉の奉仕であり、観念の奉仕であり、神の心に適うことができない。人々が宗教的観念の中に生きるなら、神の心に適うことをなすことはできず、たとえ神に奉仕しても、それは想像や観念のただ中での奉仕であり、神の心に従って奉仕することはまったくできない。聖霊の働きに従うことができない人々は神の心を理解せず、神の心を理解しない人々は神に奉仕できない。神は自らの心に適う奉仕を望む。神は観念と肉による奉仕を望まない。人々が聖霊の働きの歩みに従うことができないのであれば、観念の中に生きているのであり、そのような人々の奉仕は邪魔になり混乱を引き起こす。そしてそのような奉仕は神に反し、そのため神の歩みに従えない人々は神に奉仕できない。神の歩みに従えない人々は、間違いなく神に逆らっており、神と調和できない。「聖霊の働きに従う」とは、今日の神の心を理解し、神の現在の要求に従って行動することができ、今日の神に従順で服従することができ、神の最新の言葉に従っていのちに入ることを意味する。このような人のみが聖霊の働きに従い、聖霊の流れの中にいる。そのような人々は神の賞賛を受け、神を見ることができるばかりでなく、神の最新の働きから神の性質を知ることができ、そして人の観念や不従順、人の本性と本質を神の最新の働きから知ることができる。さらに、奉仕の過程で自らの性質をだんだんと変えることができる。このような人々のみが神を得ることができ、真の道を本当に見つけた人々である。聖霊の働きにより排除される人々は、神の最新の働きに従うことができず、神の最新の働きに反逆する人々である。そのような人々が公然と神に反対するのは、神が新しい働きを為し、神の姿が彼らの観念にある神の姿と同じではないからである。その結果、公然と神に反対し、神を裁き、そのため神により嫌悪され、拒絶される。神の最新の働きについて認識を持つのは簡単ではないが、しかし意図的に神の働きに従い、神の働きを求めることができれば、人々は神を見、聖霊の最新の導きを得る機会を得るだろう。神の働きに意図的に反対する人々は、聖霊の啓きや神の導きを受けられない。そのため、神の最新の働きを受けることができるか否かは、神の恵みと、人々の追求と、彼らの意図にかかっている。

聖霊の現在の言葉に従うことができる人々はみな祝福されている。そのような人々が過去どうであったか、聖霊が人々の中でどのように働いていたかは問題ではない。最新の働きを得た人々は最も祝福され、今日の最新の働きに従えない人々は排除される。神は新しい光を受け入れることができる人々を望んでおり、神の最新の働きを受け入れ、知っている人を求めている。なぜ貞節な乙女でなければならないと言われているのであろうか。貞節な乙女は聖霊の働きを求め、新しいことを理解することができ、さらには、古い観念を脇へ置いて、今日の神の働きに従うことができる。今日の最新の働きを受け入れる人々のこの集りは、昔から神によって予め決められており、人々のなかで最も祝福されている。あなたがたは神の声を直接聞き、神の出現を見て、そのため天と地を通じて、時代を通じて、あなたがた、つまりこの集りよりも祝福された人々はいない。これはすべて神の働きの故であり、神の予定と選択の故であり、また神の恵みの故である。もし神が語らず、言葉を発しなかったなら、あなたがたの境遇は今日のようでありえたであろうか。それゆえ、すべての栄光と賛美が神にあるように。これはすべて神があなたがたを引き上げるからである。これらのことを念頭に置くなら、依然として消極的であり得るだろうか。力がまだ湧きあがらないだろうか。

神の言葉の裁き、刑罰、打撃、精錬をあなたが受け入れることができ、しかも神の委託を受け入れることができることは、この世の始まる前に神が予め定めたことであり、そのためあなたが刑罰を受けるときあまりに苦しむ必要はない。あなたがたの内でなされた働きと、あなたがたの内に授けられた祝福を取り除くことは誰にもできず、あなたがたに与えられたものすべてを取り去ることは誰にもできない。宗教の人々はあなたがたとの比較に堪えない。あなたがたには聖書に関する偉大なる専門知識はなく、宗教理論もないが、神があなたがたの内で働いたので、幾時代にも渡る誰よりも多くのものを得た。つまり、これがあなたがたの最大の祝福である。このため、あなたがたは神にさらに献身的でなければならず、神になおさら忠実でなければならない。神はあなたを引き上げるので、あなたは努力を強化しなければならず、神の委託を受け入れるために霊的背丈を整えなければならない。神があなたに与えた場所にしっかり立ち、神の民の一人になることを求め、神の国の訓練を受け入れ、神によって得られ、最終的には神への栄光の証とならねばならない。こうした決意をどれほどあなたは持っているであろうか。このような決意があれば、最終的にあなたは確かに神によって得られ、神への栄光の証となるだろう。主な委託は神によって得られ、神への栄光の証となることであることを理解しなければならない。これは神の心である。

聖霊の現在の言葉は聖霊の働きの動きであり、この期間の聖霊による人の継続的な啓きは聖霊の働きの動向である。では、今日の聖霊の働きの動向は何であるか。それは人々を神の現在の働きへと、正常な霊的生活へと導くことである。正常な霊的生活に入る段階はいくつかある。

1.まず、神の言葉にあなたの心を注がねばならない。過去の神の言葉を求めてはならず、それを研究したり今日の言葉と比較してはならない。その代わりに、神の現在の言葉に心を完全に注がねばならない。過去の神の言葉、霊的書物、説教の記述を読むことを依然として望み、聖霊の現在の言葉に従わない人々がいれば、それは最も愚かな人々である。神はそのような人々を忌み嫌う。今日聖霊の光を進んで受け入れようとするなら、神の現在の言葉に完全に心を注ぐこと。これこそ先ず最初に達成しなければならないことである。

2.神の語る現在の言葉を基礎として祈り、神の言葉に入り、神と親しく交わり、神の前で決意し、達成しようとする基準がどのようなものかを設定しなければならない。

3.聖霊の現在の働きを基礎として真理へ深く入ることを追求しなければならない。過去の時代遅れの言葉や理論に執着してはいけない。

4.聖霊に動かされ、神の言葉に入ることを求めなければならない。

5.今日聖霊が歩む道へ入ることを追求しなければならない。

聖霊に動かされることをどのように求めるのか。重要なことは神の現在の言葉に生き、神の要求することを基礎として祈ることである。このように祈ったなら、聖霊は必ずあなたを感動させるだろう。神が語る現在の言葉の基礎に立って求めないなら、これは無益である。あなたはこう言って祈るべきである。「神よ。私はあなたに逆らい、あなたに多くの負債を負っています。私は大変不従順であり、一度もあなたを満足させることができません。神よ。あなたが私を救ってくださるよう願います。最後まであなたに奉仕することを願い、あなたのために死ぬことを望みます。あなたは私を裁き、罰されますが、私に不満はありません。私はあなたに逆らったので、死に値します。人々がみな私の死にあなたの義なる性質を見ることができるでしょう」このように心から祈るとき、神はあなたの言葉を聞き、あなたを導くだろう。聖霊の現在の言葉を基礎にして祈らないなら、聖霊があなたを感動させる可能性はない。神の心に従って祈り、そして神が今日行おうと望むことに従って祈るなら、あなたはこう言う。[a]「神よ。私はあなたの委託を受け入れることを願い、あなたの委託に忠実でありたいと願います。そして、私にはあなたの栄光に一生を捧げる覚悟があり、そうすることで、私が為すすべては神の民の基準に達することができます。あなたが私の心を動かされますように。あなたの霊が常に私を照らし、私が為すすべてがサタンに恥をもたらし、最後にあなたが私を獲得されることを望みます」神の心に集中し、このように祈れば、聖霊は必ずあなたの内で働くであろう。祈りの言葉がどれくらいあるかは問題ではない。重要なのは、あなたが神の心を理解するか否かである。あなたがたはみな次のような経験をしたことであろう。集会で祈っているあいだに聖霊の働きの動きが頂点に達し、あらゆる人々の力を湧きあがらせる。祈りながら悲痛な泣き声を上げて、涙を流し、神の前で良心の呵責に圧倒される人々がおり、また決意を示し、誓いを立てる人々もいる。聖霊の働きによって達成される効果はこのようなものである。今日、人々がみな自分の心を神の言葉に完全に注ぐことが重要である。以前に話された言葉に集中してはいけない。以前に来たものにしがみつけば、聖霊はあなたの内で働かないであろう。これがどれほど重要なのか分かるだろうか。

今日、聖霊が歩く道をあなたがたは知っているであろうか。上記のいくつかの点は現在と将来、聖霊によって達成されるべき事である。それらは聖霊が歩く道であり、人が追求すべき入り口である。いのちに入るとき、少なくとも神の言葉に心を注ぎ、神の言葉の裁きと刑罰を受け入れることができなければならない。心は神を切望せねばならず、真理に深く入ることと神が要求する目的を追求しなければならない。この力を持てば、それはあなたが神に動かされ、あなたの心が神に向かい始めたことを示している。

いのちに入るための最初の段階は、神の言葉にあなたの心を完全に注ぐことである。第二の段階は、聖霊によって動かされることを受け入れることである。聖霊に動かされることを受け入れることにより達成される効果は何であるか。より深遠な真理を渇望し、求め、模索できるようになること、そして積極的な方法で神と協力できるようになることである。今日、あなたは神と協力する。それはつまり、あなたの追求と、祈りと、神の言葉の交わりには目的があるということであり、神の要求に従い本分を尽くす。こうすることだけが、神との協力である。神に行動させることについて語るだけで、何の行動も取らず、祈りも求めもしないのであれば、これは協力と呼べるだろうか。あなたのうちに協力というものが全くなく、目的を持っていのちに入る訓練がないなら、あなたは協力していない。「すべては神の予定に依ります。すべて神自身によって行われます。神が行わないのであれば、どうして人にできますか」という人がいる。神の働きは正常であり、全く超自然的なものではなく、聖霊が働くのはあなたの積極的な求めを通してのみである。それは、神は人を強制しないからである。働きを為す機会をあなたが神に与えねばならない。あなたが求めず、いのちに入らず、心に少しの渇望もなければ、神が働く機会がない。どの道を通して神に動かされることを求めることができるのか。祈りを通して、そして神に近づくことによってである。しかし憶えておきなさい。最も重要なのは、それが神の語る言葉の基礎の上になければならないということである。神に頻繁に動かされると、あなたは肉の奴隷にはならない。夫、妻、子供、金、こうしたものはどれもあなたを縛ることができず、あなたはただ真理を追求し、神の前で生きることを望む。この時、あなたは自由の領域に住む人になるであろう。

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クリスチャン映画「天国への危険な道」抜粋シーン(6)神がサタンを利用して働きをなさる方法とは

2019-09-08 12:02:24 | キリスト教映画

 

クリスチャン映画「天国への危険な道」抜粋シーン(6)神がサタンを利用して働きをなさる方法とは
神はこう仰っています。「わたしの計画において、サタンは一歩ごとにかかとに噛み付いてきたのであり、わたしの知恵の引き立て役として、いつでもわたしの本来の計画を邪魔をする方法を探っている。しかし、わたしがサタンの欺きに満ちた策略に屈するものだろうか。天と地のすべてはわたしに仕えている。サタンの欺きに満ちた策略も同様ではないのか。これはまことにわたしの知恵の交わるところ、これはまことにわたしの業の驚くべき点であり、これはまことにわたしの全経営(救いの)計画が実行される原理なのだ。」(『言葉は肉において現れる』より)終わりの日の神の働きとして、中国共産党や宗教界の反キリスト勢力を利用し、人々を完全にさせる方法とは何でしょうか。サタンの陰謀を基に神の知恵が実行されていると言われるのは何故なのでしょう。真理を嫌悪し、神に激しく反抗し続けてきた中国共産党や宗教界の反キリスト勢力は最終的にどうなるのでしょうか。この短編動画をご覧ください。

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人生の意味とは。ある漫画家の体験の答え

2019-09-07 10:25:44 | 信仰と生活

沈(シェン)爱(アイ)(台湾)

ある日、ニュースを見ていると、台湾のある有名な漫画家がたった51歳で急死したことを知りました。その知らせを聞いた時の気持ちは複雑でした。彼は漫画業界では傑出した人で、数多くの優れた作品を生み出していました。多くの人の羨望と憧れの的で、富も名声もありました。そんなにあっさり亡くなるとは思いもしませんでした。「どんなに有名でも、どれだけの地位があっても、死んでしまったら何になるのだ」とため息をつかずにはいられませんでした。それから、私自身の30年の漫画家人生を思い起こしたのです。…

人生の意味, ある漫画家の体験の答え

青年の頃の夢

私は幼少の頃から漫画を描くのが好きで、本当に熱中し努力を重ねていました。25歳の時、幸運にもある漫画家と直接会い、彼がたくさんのファンに囲まれてちやほやされているのを見ました。大変うらやましく、「いつかこの人のようなスターになりたいな」と思いました。技量をプロの域にまで上げるには一生懸命努力し続ける必要があることは承知でしたが、代償を惜しまなければ必ずその日が来ると信じました。この思いが原動力となって、10年以上の間この道に没頭しました。技量向上のための参考として優れたグラフィックノベルを入手するのに給料の数ヶ月分の数万元をかけることもためらいませんでした。

家計は苦しくなりましたが一向に構いませんでした。腕を磨くためによく午前二時、三時まで描き、眠くてたまらなくなった時は少し仮眠を取りましたが、目を開けてすぐに考えることは、そのとき作業中のものをどのように仕上げるかでした。毎日、10時間以上いつも同じ姿勢で作画を続けたので、首や肩、背中、右手が頻繁に痛み、指が変形までして、視力が悪化するようになりました。それでも成功のためなら、ただ歯を食いしばって耐えました。自分の漫画が人から賞賛を得ると有頂天になり、もう人気漫画家になっていい車や豪邸のある自分を夢想していました。しかし現実の生活ではただの冴えない会社員であり、有名になるチャンスなどありませんでした。描くのがどれだけうまくても、稼ぎはいつまで経っても知れたものだろうと思うと、本当に悲しくなり落胆しました。

夢のための奮闘、毎度のスランプ

何とか前に進もうと、私は仕事を辞めてアジアで最大手の出版社に就職しました。そこが多くの有名な漫画家の登竜門だったからです。そこで働くことでいい機会を得れば、自分も名が売れるかもしれないと思ったのです。ある時、ある漫画出版社の社長が、現地の作家による漫画の雑誌の刊行を決定し、才能のある人材を探しにうちの会社に来ることになりました。私はその話を聞くと興奮して何日も眠れませんでした。この機会は天からの贈り物であり、ついに自分の才能を発揮して脚光を浴びるチャンスが巡って来たと思いました。このことではかなり思い悩みました。漫画のコンセプトから素材、プロットに色付けまで、検討に検討を重ねました。他の漫画もかなりの数を参考に読んでみました。日中は仕事があったので、毎晩徹夜で作業し、数日経ってやっと最終作品ができました。希望に溢れて私は上司に会いに行きました。ところが、驚いたことに考えが衝突し、口論になり、上司の機嫌を損ねてしまったのです。結局、上司は同僚の作品を選び、私の有名になるという望みは打ち砕かれたのです。

それ以後、私は猛烈に憤り、その時の自分の思慮の足りなさを後悔しました。しかし絶望はしませんでした。自分の漫画を持ち込みにその出版社に戻ったのです。グラフィックノベルの編集者に作品を大変気に入ってもらい、社内漫画家の一人になりました。その後間もなく、ある脚本家と共にグラフィックノベルの制作の担当になり、それに全てを注ぐ準備を整えましたが、その制作の成功が私が機嫌を損ねた上司の手に委ねられることを後になって知りました。私の気持ちは激しく交錯しました。自分の過去の行動を後悔し、自分の作品がどんなに優れていても上司の目に適うことは決してないだろうと悟り、あきらめるしかありませんでした。漫画家になるチャンスをまたしても失ったことに本当に落胆し、あまりに衝動的だった自分自身を憎みました。あのことがなかったら、その機会が出世への一歩だったかもしれません。夢の実現のために長年苦労と努力を重ねても失敗ばかりなことを思うと、絶望に満ちました。言葉にならないほど苦しく、先がとてつもなく陰鬱になったと感じました。

希望が打ち砕かれたことでひねくれた私には、描くことがしばらくとても苦痛になり、ペンと紙を見るのも嫌でした。しかし、漫画家になるという夢をそれだけの理由であきらめたくなかったので、描き続け、描き続け、描き続けました。数年が経ち、私は作品を様々な出版社に持ち込みましたが、それは海に小石を落とすようなもので、失敗の度にひどく心が痛み、ますます憂鬱になりました。よく川のそばに一人で座り、車や人が行き来するのを見ました。途方に暮れ、どうすればいいのか分からなかったのです。なぜあんなに一生懸命働き、全身全霊を捧げたのに、うまく行かないように運命づけられていたのか。ただそうならないように決まっていたのか。有名になれないように予め決められていたのか。なぜ人生はこんなにも厳しいのか。

いつも調子の悪い私を見た家族には、夢を諦めるよう何度も何度も勧められました。けれど私は、「あれほど時間と金をかけ、体を壊してまで何年も頑張って来たのに、そう簡単に諦められるか」と感じました。全く諦める気はなかったので、ひたすら描き続けましたが、60代になっても無名のまま、失望で胸が潰れそうでした。元同僚の作品が店頭に並んでいるのを見る度に、妬ましくて辛い思いをしました。自分の作画は彼らに負けないと思うものの、30年以上を漫画に費やしたのに何も世に出せなかったのです。何もかも静かになった夜中に、自宅で自分の漫画を見回して、一層絶望と苦痛を感じました。「この才能はどうしてこんなに無駄になったんだ。どうして有効活用する機会がなかったんだろう」とよく自問せずにはいられませんでした。それでも、有名になりたいという願望は檻の中の獣のように落ち着きがなく、たとえかすかな希望しかなくても私は一生懸命働いて挑戦し続ける覚悟でした。

でこぼこ道の果て、そして神の御前に

2017年、私はあちこちで情報を集め、アメリカとヨーロッパではグラフィックノベルの需要がかなり高いことを知りました。それで、欧米のどこかの国に行けば有名になってたくさん稼げるかもしれないと思いました。元気を取り戻した私は、欧米で一般的な漫画のスタイルを学び始めます。しばらく経って、ようやく作品を準備すると私はとても嬉しくなり、海外の出版社に作品を送ることを計画していました。ちょうどその時、終わりの日の神の救いが私に訪れたのです。私はそれを受け入れましたが、それでも漫画を完成させるのに常に没頭していました。それで心に平静を保つことができず、神の御言葉を真剣に読んでいませんでした。神の前に立ち返ったのは別の壁にぶつかってからだったのです。

ある日、次の神の御言葉を目にしました。

「人の運命は神の手によって掌握されている。あなたは自分自身を掌握することはできない。いつも自分自身のことであくせく動き回っているのにもかかわらず、人は自分自身を掌握することができないままでいる。あなたがもし自分の前途を知ることができ、自分の運命を掌握できるなら、それでもあなたは被造物だろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終著點に連れて行くこと」より)

私は神の御言葉を思案し、大いに目が覚めました。私たちの運命は全て神の支配下にあり、神の手に委ねられていると悟ったのです。私たちはただの被造物ですから、自分で自分の運命を変えることはできません。明日何が起こるのかも分からない私たちに、どうして自分の運命の主になれるのでしょうか。私は過去30年間を思い返してみました。有名な漫画家になるためにたゆまず奮闘しましたが、スランプが相次ぎました。成功はいつも手が届きませんでした。ということは、私には自分の運命を掌握していないということではないのか。実際には、神は私たちが人生においてどんな仕事に就き、どんな成功を収め、どんなキャリアに進むかをとうの昔に決定されていたのです。しかし私は神の支配を理解していませんでした。群を抜こうとし、傲慢にも神の支配から脱せられると考え、自分自身の能力と勤勉に頼り続けました。その結果、自己も肉体も精神を完全に消耗し、戦傷に悩まされ、絶えず苦痛を背負って暮らしていました。

私の苦しみは求めるものを誤った結果だった

後に、私は神の御言葉を読みました。「実際には、人間の理想が如何に高尚であったとしても、また人間の願望が如何に現実的であり、適切であったとしても、人間が成し遂げたい事、求める事は、二つの言葉と不可分な関連性がある。その二つの言葉は、人間それぞれの生涯にとって極めて重要であり、サタンが人間に吹き込みたいことです。その二つの言葉とは、何でしょうか。そのひとつは「名声」で、もうひとつは「利得」。二つの言葉とは、名声と利得です。サタンは極めて温和な方法、人間の観念に極めてうまく適合する方法を用います。その方法には、全く過激さが無いのです。人間は、無意識のうちにサタンの生き方や生活の規則を受け入れるようになり、人生の目標や方向性を決定し、またそうすることにより無意識のうちに人生の理想を持つようになります。そうした人生の理想は、どれほど高尚な響きがあったとしても、名声や利得と複雑に関連している建前に過ぎません。偉人や有名人のみならず、全ての人々が人生において従う全ての事柄は、「名声」と「利得」のふたつだけに関連するものです。そうではないですか。人間は、名声と利得を手に入れれば、それを利用して高い地位や莫大な富を堪能し、人生を楽しむことができると考えます。名声と利得を手に入れれば、それを悦楽の追求と不徳な肉の快楽に利用できると考える。人間は、自分が求める名声と利得のために、無意識ではあるが率先して、自分の心身や所有する全ての物事、将来、運命をすべてサタンに引き渡します。人間はこの引き渡しにあたり、実に一瞬たりとも躊躇することが無く、それを奪回する必要性を省みることも一切ありません。このようにして人間がいったんサタンを頼りにし、サタンに忠義を尽くしたなら、人間は自分自身を支配していることができるでしょうか。無論できません。こうした人間は完全にサタンに支配されます。彼らはすっかり泥沼に沈み込んだのであり、そこから抜け出すことは一切不可能です。」(『唯一の神自身6』より)

神の御言葉に私は深く感動し、そこで明かされたことから、自分が有名な漫画家になりたいと絶えず思い、そのために必死で働いていたのは、サタンに惑わされて堕落していたからだと悟りました。名声と利益に縛られていたのです。教育や有名な偉人の影響により、私たちは「生きては傑人,死しては優れた鬼とならん」「頭角を現すは人の道」「人は高い所を目ざし,水は低い所に流れる」といった誤った考えを植え付けられてきました。

その結果、私たちは群を抜いて人を追い越すことを正当な目標と思い誤り、「名声と地位があって、人に尊敬されて取り巻かれ、注目の的とならなければ人生に意味と価値はない」と思い込んでいます。私は有名な漫画家になるのに30年もの時間とエネルギーを費やしたことを何とも思わず、貯蓄を全て注ぎ込んだだけでなく、かなりのエネルギーを費やし健康まで危うくしました。作品の持ち込みの失敗はその度に大きな打撃で非常に苦痛を感じ、迷って優柔不断になり、あきらめようかと思ったものの、有名になることの栄光を考えたとたん、そこから抜け出せなくなっていたのです。

私は精一杯漫画の道を歩み続けました。神の救いが私に訪れた時でさえ、まだそれに向ける心がなく、それどころか、私は無我夢中で名声のために死に物狂いで働き続けました。それはまた別の障害物が私の前に立ちはだかるまででした。その時初めて、名声と富を追求するというサタンの考えに自分が支配され、踊らされていると悟ったのです。私はその考えの操り人形に過ぎず、そのためにどんな代償でも払い、全てを費やし、サタンの手の中でもてあそばれていたのです。それから私はまた有名人のことを考えました。彼らは広く知られていて、評判も良く、人々に囲まれて称賛されているからといって、心の中は安らいで満たされていたわけではありません。むしろ一層空しさを感じ、悲観的になって世の中にうんざりして、自ら命を絶っています。

多くの人は名声を得る前にしっかり足を地に着けていることができていますが、成功して有名になると心の空虚さが増し、退廃し堕落しました。飲み食いやどんちゃん騒ぎにふけり、肉体を満足させ欲望に身を任せる人もいれば、刺激を求めて麻薬に手を出し、犯罪に走って人生を棒に振る人もいました。名声のためだけに自分の体を売って、人格と尊厳をすっかり失った人もいました。このおかげで、群を抜こうとすること、人の称賛と人気を求めることは人生の正しい道では全くなく、真の幸せな人生をもたらせないと私は一層はっきり悟ることができました。そうすることはますます邪悪になって堕落するだけであり、たとえ手に入っても、空虚さと苦痛でしかありません。これはサタンが人類に危害を加える悪しき手段の一つなのです。

このことを全て悟った私は、突然心の中に光を感じ、もはや有名になることにそれほど執着もせず取りつかれてもいませんでした。それは正に神の私への救いのおかげです。もし神の御言葉の暴露がなければ、名声と利益の追求が自分に与えた害を自覚できず、サタンに弄ばれ傷つけられたままであったでしょう。今の私は新しい人生設計を立てる必要があり、一文の得にもならない名声と利益はもはや求めていません。

新たな方向性を見出だす

「忘れ去ろう」と言うのは簡単でしたが、いざ実行するとなると、本当はあまり気がすすまないことがわかりました。結局、私は30数年も血と汗と涙を漫画に捧げたのです。しかし、名声と利益の追求が自分にもたらした全ての苦しみを思い出すと尻込みしました。それで、私は祈りの中で神の御前に出て、前に進み、この追求の束縛から解き放れるように導いてくださるようにお願いしました。私は後に「唯一の神自身III」における神の次の御言葉を読みました。

「人々が追求する人生の様々な目標や生活様式を繰り返し調査し、注意深く分析すると、創造主が人類を創った時の創造主の本來の意図と一致するものがひとつも無いことが分かります。それらは全て人間を創造主による統治と慈しみから引き離し、人間を墮落させて地獄へと導く罠です。このことを確認した後の作業は、以前の人生観を捨て、様々な罠から離れ、自分の人生を神に託して神による採配に委ね、神の指揮と導きのみに従うよう心がけ、それ以外の選択肢をもたない神を崇拝する者となることです。」「ある者が、人生は創造主による統治を体験し、その権威を知る機会であり、その者が創造された人間として本分を尽くし、使命を果たす希な機會であると考えているのであれば、その者は必然的に正しい人生の見通しを得て、創造主により祝福され、導かれた人生を送り、創造主の光の中を歩み、創造主による統治を知り、創造主の支配に服従し、創造主の奇跡の業と権威の証をするものとなる。」

神の御言葉は正しい道と求めるべき方向性を私に示してくださいました。名声と利益の追求による苦痛から自分を解放するために、私は以前の誤った目標と人生観を捨て去り、名声と利益はサタンが人類を堕落させるためのやり方の一つであると悟らなくてはなりませんでした。人に好かれ尊敬されるように他人より秀れ、有名になろうとするのをやめなければならず、そうではなく自分の人生を神の手に委ね、自分の進路に関しては神の支配と采配に従わなくてはならなかったのです。善良で堅実な人にならなくてはならず、全てのことにおいて創造主の権威を受け入れ、経験して知り、被造物の一つとしての自分の本分を果たすことに専念し、神に与えられた使命を成し遂げなければなりません。それだけが人生における価値であり、最も意味のある人生を送るための道です。

過去には、私は神の御心が分からず、それどころか名声と利益のためだけに30年以上も骨を折ってきました。人生の方向性を失い、サタンに弄ばれて大変苦しみました。今や神の御言葉に実践の道を示されたので、二度とサタン的な邪説と思考に基づいて生きることは決してしません。神は私たち人間のために万物を創造し、私たちにいのちを吹き込んでくださいました。そして終わりの日に、神は再び人類のもとで働き、人類を救うために肉となられました。私は神が授けられたもの全てを享受する被造物なので、良心と理知を持ち、神の愛に報いるために神の御前にて私の本分を果たすべきなのです。神は私に描く力をお恵みくださったのですから、私はその賜物を用いて創造主に証しをし、神に満足していただくために生きるべきです。ひとたびこれを理解すると、私の心はかなり明るくなり、それからどのような道を進むべきであるのかが分かりました。

被造物として基準を満たそうとすることのみが価値と意味ある生き方

ある日、ディボーション中に神のこの御言葉を目にしました。

「あなたがたが邪悪と堕落の地から離れ、邪な集団と離別するならば、その時、あなたがたの考え、霊、そして心が虐げられたり堕落させられたりすることは無くなるであろう。あなたがたが清らかな場所へ来て、神の御前に来る時、それは大いなる恵みではなかろうか。……宇宙の万物や地球に住む数十億の人間のうちのひとりとして、こうした自らの本分を尽くし、責任を果たすことに自らを捧げることによって創造主の業の証しに立つ機会を得られる者は何人居るであろうか。誰がこうした機会が得られるであろうか。そうした者は多数居るであろうか。そうした者は全体の何割であろうか。(1万人に1人である。)1万人に1人居るであろうか。いや、それよりも少ないであろう。とりわけ、あなたがたは習得した知識を用いて自らの本分を尽くしている。これは極めて有意義である。これは極めて大いなる祝福ではなかろうか。あなたがたは、特定の人間の証しに立っているのでも、些細な活動に参加しているのでも無い。あなたがたが仕えているのは、創造主である。何と素晴らしい事であろうか。……全ての創造物のうち、ここに居る諸君以上の恵みを授かっている者や集団は一切存在しない。他人は何のために生きるであろうか。他の者は、輪廻のため、そして地の刺激のために生きる。あなたがたは何のために生きるであろうか。あなたがたは、創造物として自分の本分を尽くすために生きる。そのように生きることは貴いことではなかろうか。それは極めて貴い。」(「自らの真心を神に捧げた後に真理を得ることができる」より)

私は神の御言葉を読んで非常に感動し、神に選んで頂き、神の家族の楽園へ導いて頂いたことに感謝しました。神は御言葉をもって、私を潤し養い、啓き導いてくださり、そのおかげで私はサタンが人類を堕落させ傷つける戦術を見極められます。私は二度と名声と利益のためにあんなに苦い努力をすることはありません。教会では、兄弟姉妹に何か困ったことがあるといつでも誰もが真理について交流し合い、辛抱強くその人を支え、助けていることを見てきました。兄弟姉妹の間に争いや誤解が生じても、皆が純真で率直で、思っていることを打ち明ける誠実な人々です。これは私にこの上ない自由と解放をもたらしました。

非常に多くの兄弟姉妹が熱心に自らの本分を果たし、神の国の福音に全てを捧げています。自らの本分を果たす過程で、彼らはますます真理を理解するようになり、神に関する認識が次第に増し、自分たちのいのちにおいて急速に前進しています。この様子を見て私は彼らを立派に思い、自分の本分を果たせることも楽しみにしていました。その後、作品を海外の出版社に持ち込むことを完全にあきらめて、教会で福音漫画を制作することを学び始めました。神の導きにより、素早く習得しました。今では自分のこの強みを神の証しをするために使えることを非常に光栄に思います。実体験から学んだのは、名声と利益を求めることをやめ、神の支配と采配に従い、被造物の本分を果たし、神の配慮と指導の中で生きることでした。こうして初めて私の心は本当に落ち着き、安らぐのです。このような霊的な喜びと平安は、物質的な楽しみや名声や利益で代用できるものでは決してありません。

人生は短く、光陰矢の如し、全ては儚いのです。一日も無駄にできません。私は自分の本分を果たす上で、真理を追求し、神の権威を理解して自分のサタン的で堕落した性質を捨て、真に神に従って崇敬する者になることを目指します。神に感謝します。

 

「正直な人々だけが人間の姿を持つ」MV

2019-09-06 12:43:37 | MV

キリスト教徒映画「いつも誠実な心を」日本語吹替版テーマソング「正直な人々だけが人間の姿を持つ」MV

名利を求め 行動基準を棄て
私は厚かましくも、欺瞞により生きた
良心も道徳も誠実も尊厳もなく
ただ欲望と貪欲を満たそうとした
不安の中、罪の沼にもがき
無限の闇から逃れるすべはなかった
生活の富と はかない快楽は
空しさと痛みを覆うことはない
なぜ誠実であることは難しいのか
人はなぜ狡猾で邪悪なのか
何という世界か 誰が救うのか
何という世界か 誰が救うのか

私は御声を聞き、御前に戻った
日々御言葉を読み、多くの益を得る
多くの真理を知り、振る舞いの原則を得た
神の示した真理は私の堕落を清める
裁きと罰の言葉は生活に伴う
神の吟味を受け入れると 心は安らぐ
欺瞞も偽りもなく 私は光に生きる
心を開き、正直で やっと人らしくなれる
試練と精錬を受け、御顔を見た
そして御言葉の中に私は命を得る
詐欺と欺瞞を棄てて、今正直になれた
神の愛と救いに永久に感謝します
全能神に感謝します ずっと、永遠に
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

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