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1Q84[感想2]

2009年07月29日 | Books
皆から「どんな話?」と聞かれても、一言も答えられず困っていたんですけど、あんまり難しく考えずに冒頭のあらすじを言えばいいのだ、と気がつきました。

舞台は一応「1984年」の日本。
天吾、30歳、小説家志望で予備校の数学講師をしている男と、
青豆、30歳、ワケありスポーツインストラクターの女、
それぞれが主役のお話が、1章1章交互に綴られていきます。
天吾も青豆も、自分が意識しないうちになんだかおかしなことに巻き込まれていくお話。

・・・最大限ネタバレに配慮して書くとこんな話です。
すごく適切な気がします。自画自賛。


しかし。それじゃ、いざ読者感想文を書こう!・・・となると、このあいだ言った通り、自分がどんな感想を持ったのかさえよくわからない。

確かに一章一章は読みやすく、おもしろく、興味深く、世界に引き込まれていきました。
(作品中、作者が登場人物に代弁させているところによると、それで充分じゃないかと。それのどこが作家の怠惰なのだと言われてしまいましたけど・・・。)
本を読むのがかなり遅い私(漫画単行本1冊最低2時間)でも、あの厚さの本2冊を2週間で読み終えちゃったくらいだから、これは結構珍しいことだと思うのだけど・・・。

この物語全体を通してどんな感想?と聞かれたら答えに困る。


実は読み終わったの、結構前なんです。
けど、「つまるところ何を主題にしている話なの?」と悩んでいたら、ストーリー詳細は忘れられていく一方で・・・。


こんな感じなので、とりあえず未だ心に残っているあれこれを列挙しておこうと思います。
いつか解決する日が訪れますように。

以下、ネタバレには一切配慮していませんので、これから本を読む予定のある方はお気をつけくださいませ。



リトルピープルとは

「結局、リトルピープルってなんのこと?」
これについては私なりに仮説があって、

リトルピープル≒もののけ姫のシシガミ様
(で、見た目はコダマ)





 ・・・・・・ え?





ふざけてないよ?

ふざけてないっすよ、失敬なー。


端的に言って、リトルピープルとは人が畏れ敬う対象のことだと思ったんです。

キリストであったり
シッダールタであったり
アラーであったり
八百万の神々であったり
だからもののけ姫なら森やらシシガミサマかな?ってこと。
暗がりだったり
地震雷火事親父だったり

そういう存在すら持たない人もいるし、身近に感じながら生活している人もいる。
目に見える場合もあれば見えない場合もあって、いろんな形、有形無形のアンタッチャブルな存在?みたいな。

幼いふかえりには盲目のヤギの死がそんな存在で、で、そこからはSF的というか思想的な力をお借りして、リトルピープルとシャーマン体質のふかえりをつなぐ「道」ができちゃったのかなー、とか。
どうでしょうかね、この説は。


青豆さんのさいご

なぜああする必要があったのか。唐突な気がした。

このままだとどちらにしても「自分」は消える。
今までそれをなんとも思ってなかったし、むしろそれを望んでいたくらいだったけど、天吾と自分がつながっていることを知って、そんな「自分」の存在が惜しくなり(=愛おしくなり)、天吾とつながったままでいるために「自分」のまま消えたい、とか思ったのかな?
これも仮説です。


小松さんはいずこへ

病気、治ったのかしら。
原因不明の病に倒れてから、音信不通。消息も不明。
そしてそのまま放置。
自業自得というには可哀相すぎ。
生きてるのかなあ。


ふかえりの正体

結局彼女は「マザ」なのか「ドウタ」なのか。
一応終始「マザ」ってことで通っていたと思うんだけど、それにしては腑に落ちないことが多い。

Book1では天吾にボーイフレンドについて聞かれ、
「いない。ニンシンしたくないから」
と言っていた。

それがBook2では「オハライ」と称し、あっさり天吾とセイコウした。避妊もせずに。
(カタカナとはいえいきなり直接的表現でゴメンナサイ。)

「オハライ」の後にふかえりが妊娠しやしないかとビビる天吾に、
「わたしはニンシンしない。セイリがないから。」という。

えー?

でも、実際不幸な目に合って体に傷を負っているのは「ドウタ」であって「マザ」じゃないんでしょ?
そうじゃなければリーダーが自分の行動を正当化して青豆に説明した意味ないよね?
てことは後半のふかえりは「ドウタ」ってこと?
‘わたしは’妊娠しない。という言い方がひっかかるし。
失踪中に入れ替わったとか?
でも「ドウタ」だったらつばさの時みたいにリトルピープルが回収しそうだしなあ・・・。

そもそも「セイコウ」が「オハライ」になるってなんで?
「猫の町」に行って帰ってきた天吾になぜその「オハライ」が必要なの?
(もっと言えば親父の見舞いがなぜ「猫の町」に行ったことになるのか、そこからしてわからん。)
「オハライはした(?)」「いや、まだだと思う・・・」みたいな会話があったことを考えると、その行為が重要なのであって、相手は誰でもいいのか?
意味がわからん。

そしてそのオハライの後、急に青豆を探し出す気になった天吾の心境の変化も意味がわからん。


説明しないとわからないことは説明してもわからない

漠然と、言いたいことはわかる気がします。
人から与えられたもので動いているうちは結局何も変わらない、と。
早く自分で気づかないと、いつか手遅れになるよ。という警告?
物語のキーになってる言葉なんだろうなーということも漠然とわかります。
 

でも極めて浅く読むと、非常に悲観的な言葉にも思える。
言わなきゃわからんバカは言ってもわからんバカだ、とサジを投げられた感じ。

さらに、「意味わからない?自分で考えなよ。わからないならそれまでだよ。」と、作者からも見放された気分。



あとはもう、Book2になってから展開が速くて速くて。
とりあえずコレ説明しておかないと物語的にどうにもならないよって伏線だけを、リーダーの口を借りて一気に説明しました~っ、ハイ、回収~~~!!・・・という印象が否めず・・・。



天吾父が生きることを放棄したように急速に生気を失っていく。
検査と称してどこかへ運ばれていく。
なかなか戻ってこない。
代わりに空気さなぎが出現。
中身を覗いて見てみると・・・?

10歳の、、、あああ青豆さぁん!?・・・ってなんで?ねえ、なんでなんで??


なんかもう、ここまでくると抽象的芸術的過ぎてついていけん。
隠された意味を探るのにも疲れた。
もっと現実的な話なのかと思っていたな。
まあ、月が2つある時点でね。針一本で必殺仕事人な時点でね。現実的なわけないんだけど。(あの殺し方は医学的に可能なの?)


で、ここまで書いておいてなんだけど、結局は1個1個説明を待つものでもなく、1個1個検証していくものでさえない、物語を肌で感じて、そこから何かを感じとればいいってことなのかな?と思ったりもする。
そういう話や謎かけ的な芸術作品こそ、マニアな人たちが研究したがるのだろうし。


結論。批判的な感想を書くつもりは全然なかったし、逆に今も興味深く感じているのだけど、やっぱり「玄人向け」ってことなのかな、と。
村上作品を読み尽くしている人には、
他の作品とリンクしてるところがあったり、
オマージュがあったり、
一貫して伝えようとしていることがわかっておもしろいのだろうけど。

村上文学研究者でもない初心者にとっては、
まるで「1Q84」という一見さんお断りの高級料亭に連れていかれ、
そこでは店の構えに見合う、それ相応のおもてなしは受けたけれど、
女将と常連同士の会話に自分だけがついていけず、
自分の世界との共通項を見いだすこともなく帰ってきたかのような、そんな感じです。



とにかく、今は頭が他所(夕顔荘の方角)向いちゃってていっぱいいっぱいなもので・・・。
まともに考えられずごめんちゃい。

1Q84<ナツヒ って・・・。

ビミョー・・・。


しょうがないよね~、私のノーミソが大衆的通俗的娯楽向けにできてるんだから。
コメント (2)
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