受け容れる、
ということから
踊りは始まるのだろう、
なんて、今更またしきりに思う。
伝えようとする前に何を受け止めたか受け止め得たかということがないと、踊る、ということ自体が始まらない気がして、ならない。
現実のことでも夢でも予感でも何かしらが、訪れて、それを全面的に、感覚し感受する、ということが、肉体を振る、のではないかという感触があって仕方がない。
これという出来事とか原因があったわけではないのだけれど、ある日の稽古を境に、ずんと思うようになった、冬の気配がする頃だったが今年の新作公演を事後検証するための稽古を何度か繰り返していた。
上演が終わった作品を稽古することは次作への結構大事な作業なのだけれど、それと同時に、ちょっとした痛みにつきあっていた。
体の痛みや心の痛みは、いろんなことに敏感になるのか、やはりある種の回路を作り出すのかもしれないし、作品反芻と同時に、体を反芻するというか、舞踏体というもの自体を経験しなおそうとしていたのかもしれない。
踊り、というのがなぜかくも抑えがたいものなのか、、、。
踊り、というのは表現でもあるが、表出でもあるんだと思う。意図的な行動でもあるが、抑えがたい衝動から出てくる純粋行動でもある、そう思う。
言い換えれば、それは意識と無意識の同時シンクロであるし、何かの訪れによって自分の奥のほうが波立ち、肉体が何かを受け容れて別の存在感に変容してゆく、ということだ。
これは、一種の存在の「旅」なのではないか、とも思う。
ワタクシというものが
ふとマッシロくなって
「いれかわってゆく」瞬間、、、
そのようなことを作品とか舞台に反映することができるには、どれくらい時間がかかるか分からないが、やはり、これは課題と思えて仕方がない。
そんなことを思いつつ新年の数日を送る。胸のなかが、ざわざわする。
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コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー
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