クラスの前にようやく自分の稽古はじめを行い、反芻中の前作ソロの返し稽古に加えてベートーヴェンのクロイツェルをさらった。
上はクラスレッスンでもたびたび踊ってもらっている曲でもあるけど、これを踊っておかなければと思ったのは、構想中の新しい作品にも無意識のどこかで関わっているのかもしれないと思うからだった。そういえば年末に第九を何度もきいた。どちらも、聴いても聴いても刺さり、ズキズキする。二曲いづれも舞台で踊ることはまだ出来ていないが、いったい何年くらい聴き続けてきたのだろう、もはや一生聴き続けるかもしれない、とか、思ってしまう。
同じ音楽を、何度も、何歳になっても、聴き続けることができるのは素敵だと思う。何歳になっても聴き続けることが出来る音楽を生み出せるというのは、もっと素敵なことだと思う。そのような曲をいくつも産んだベートーヴェンはやはり、とてつもない。
踊るとき、なぜか音楽は知らない猛獣みたいだと思う。舞台で踊った音楽は結構あっても、どの曲も、もういいかなと思ったことがなくて、次にこの曲を踊るときはああしたいこうしたいと妄想してしまう。例えばベートヴェンの場合でも、昔々オケにいたころ初めて演奏したのは6番だったということに始まり、ずいぶん色んな機会にさまざまな曲が出現したが、曲から髪を鷲掴みにされたような思いが何度も湧いて、いったいこの作曲家は何者なのだろう、と、いつも思えてきた。
僕が興味を持ってしまうひとつには反復性ということもあるかもしれない。繰り返すこと。これは僕のダンスにもどこか重なる気がする。常に新しくあることは常に異なってゆくことではなく、繰り返しをいかに生き活かすことができるかという反復にこそ新しさが宿るのではないかと、僕は考えている。ベートーヴェンの音楽の中では、いつだって何かが繰り返される。何かが繰り返されながら、繰り返されることによって、熱を帯び力を蓄え光を放ってゆく、そんな感じがする。確かに感じる。
繰り返す、ということ。これは、僕にとって、生活的にも舞踊的にも創作的にも、とても必要なことだったりする。同じ本を読み続けたり、同じ人と話し続けたり、同じ場所に行き続けたり、そういうところから、僕の場合は、踊りが出てくる元があるのではないかという気もする。「繰り返す」という行為には、人間にとって根源的な重要さがあるのではないか、と僕は思っている。繰り返すことによって、自分では気づかないほど少しづつ認識力や生命力が宿ってゆく。ダンスを通じて、そう感じてきた。
同じことを何度もやるのはつまらないと言う人も沢山いるが、僕は同じことを繰り返し続けてきた。同じことを繰り返すことからこそ、何かを開発することが出来ると思っている。また、繰り返しが出来る人を立派だと僕は、感じている、感じてきた。
「繰り返す」ということから、稽古や練習に関わる「り、はーす」という言葉も連想する。reは反復、hearsは鋤で耕す、ということだから、リハーサルというのは繰り返し耕すという意味なのだろう。そこに現れているように、「踊る」というのは、繰り返し動き、ながら、すなわち、身体を耕すことだったりもする、そんな気がしてならない。踵や指先や心臓や背中から、膨大なものが脳味噌に流れ込んでくる。繰り返し動き、繰り返し感じ、という、そのようなことからこそ、何か、始まりの種子が育ってゆく。そんな気がしてならない。
「繰り返し」動き、「繰り返し」感じ、「繰り返し」歌い、「繰り返し」語り、「繰り返し」泣き、「繰り返し」苦しみ、「繰り返し」味わい、、、。
「繰り返し」は身体を存在を耕してゆく。何かを繰り返すことからこそ何かを生む土になってゆく。もしかして、すべてはそこからなのではないか。
と、いまおぼろげに、おもう。
コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー
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