なぜか、映画にダンスを感じることが、たまにある。
元ノイエタンツのダンサーだったリーフェンシュタールの最後の作品は海と彼女のダンス。やはり元ダンサーのマヤ・デレン『聖騎士』。カヴァーニの『愛の嵐』は哀しすぎる切なすぎるが息苦しいほどにダンスだと思ったし、岡本太郎美術館で観たトリン・T・ミンハの『四次元』という作品は日本の風景とあるいは言葉とあるいはあらゆる記号とカメラアイと編集リズムが互いにダンスを踊っているみたいだった。そういえば、映像そのものが踊っているみたいだと思った最初の体験はジョナス・メカスだった。
逆に、ダンスを観てまるでシネマみたいに世界が明滅して見えたのは故ピナ・バウシュ本人が舞った『カフェ・ミュラー』初来日のステージ。現実と幻がダンスのなかで溶け合いながら、生身なのに今にも遠く消えてしまいそうな、白いスクリーン上の何かのようだった。
さて、
だいぶ前にこのブログでさわいだ映画が、やっと観れる。
チリの天才監督アレハンドロ・ホドロフスキーの新作『リアリティーのダンス』がロードショーになる。7月から始まる。
美術家の奥様パスカルさんとの展覧会もあるみたいだ。(この自伝的映画で奥様は衣裳デザインをしている。息子さんは出演と音楽をしている。家族、仲間、創作、人生!)
この映画タイトルそのものだけど、ホドロフスキーの映画からは、人生はダンスだ、という声が聴こえてきそうに思う、そう最初に思ったのは『ホーリーマウンテン』のラストシーンだった。『エル・トポ』では全編通じて、あの砂漠と真っ青な空のもと、物語そのものがダンスのようにアナーキーな鼓動をしていた。飛躍につぐ飛躍、論理をちぎって疾走するイメージ、スピード。ホドロフスキーの映画は、理解するとか共感するとかいうよりもノる快感に満ちている。わかるまえに、どこかにパーッと連れて行かれる、連れて行かれてここはどこ、と幻惑される快感。
さて、こんどはいづこへ連れて行かれるか。
予告編もインタビューも素敵だった。大きなスクリーンで観るのが楽しみ。いい劇場を選ばねば!
元ノイエタンツのダンサーだったリーフェンシュタールの最後の作品は海と彼女のダンス。やはり元ダンサーのマヤ・デレン『聖騎士』。カヴァーニの『愛の嵐』は哀しすぎる切なすぎるが息苦しいほどにダンスだと思ったし、岡本太郎美術館で観たトリン・T・ミンハの『四次元』という作品は日本の風景とあるいは言葉とあるいはあらゆる記号とカメラアイと編集リズムが互いにダンスを踊っているみたいだった。そういえば、映像そのものが踊っているみたいだと思った最初の体験はジョナス・メカスだった。
逆に、ダンスを観てまるでシネマみたいに世界が明滅して見えたのは故ピナ・バウシュ本人が舞った『カフェ・ミュラー』初来日のステージ。現実と幻がダンスのなかで溶け合いながら、生身なのに今にも遠く消えてしまいそうな、白いスクリーン上の何かのようだった。
さて、
だいぶ前にこのブログでさわいだ映画が、やっと観れる。
チリの天才監督アレハンドロ・ホドロフスキーの新作『リアリティーのダンス』がロードショーになる。7月から始まる。
美術家の奥様パスカルさんとの展覧会もあるみたいだ。(この自伝的映画で奥様は衣裳デザインをしている。息子さんは出演と音楽をしている。家族、仲間、創作、人生!)
この映画タイトルそのものだけど、ホドロフスキーの映画からは、人生はダンスだ、という声が聴こえてきそうに思う、そう最初に思ったのは『ホーリーマウンテン』のラストシーンだった。『エル・トポ』では全編通じて、あの砂漠と真っ青な空のもと、物語そのものがダンスのようにアナーキーな鼓動をしていた。飛躍につぐ飛躍、論理をちぎって疾走するイメージ、スピード。ホドロフスキーの映画は、理解するとか共感するとかいうよりもノる快感に満ちている。わかるまえに、どこかにパーッと連れて行かれる、連れて行かれてここはどこ、と幻惑される快感。
さて、こんどはいづこへ連れて行かれるか。
予告編もインタビューも素敵だった。大きなスクリーンで観るのが楽しみ。いい劇場を選ばねば!