櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演2024年7/13〜14 ◉コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

ひびきあう ちから

2014-06-16 | ダンスノート(からだ、くらし)
舞踏やコンテンポラリーと並行して、オイリュトミーの教室を指導している。

オイリュトミーは、舞踊を通じて感じる力を高めるワーク。表現方法というより、感覚の拡大方法というほうが良いかもしれない。全身で踊りながら音楽や言葉をより深く味わおうとする。
音、声、それらが空間に広げる波動、それらが時に刻みこむリズム。身体はそのような、うごき、を、動き、によって読む。いわば、表現する舞踊に対して反射する舞踊。

じっとしていると様々に散らばりやすい音や言葉や空間や時間に対する集中力を、それら対象にシンクロしてカラダを動かすことで、的を絞り研ぎ澄ます。そして対象を、音楽や言葉に表現されたものを、より深く味わい吸収する。オイリュトミーは、そのために用意された独特の型やメソッドを持つ。

全身を鼓膜のようにすると言えば良いのか。身体のことを、うつしみ、という言い方が日本語にはあるが、それが近い。

そんな、オイリュトミーを学びたい人は少しづつダンスや俳優の外にも広がりつつある。音楽家、詩人、教育者、子を持つ親、デザインや美術にたずさわる人、、、。感受性や関係性の可能性に興味ある人が多い。

指導しながら、その振付を考えながら、あるいは共に踊りながら、しばしば感じることがある。

それは人間には「響きあう」という力が内在するのではないか、ということ。共振感覚と言い換えてもいいかしら。

音、言葉、身体。少なくともこの三者が共振しているのが、オイリュトミーの稽古中の状態。稽古は数人で行なうから、自分だけではなく、他の人とも様々な事を共有する。身体とは、自分の身体だけではない。

響きあう、というのは、わかり合う、とも少し違う。もう少し軽いかも、もう少し瞬間的かも、もう少し身体的かもしれない。阿吽の呼吸とか、以心伝心とか、少し近いかもしれない。

響きあう、というのは、
そうしようと思って「がんばって」「出来る」ことではない。ある瞬間にふいに「訪れる」それが響きの瞬間。
たいてい「その時」は身体も心も力みがない。無駄な力が身体や心を硬くするから、頑張り過ぎると感じる力は減り、我が張る。
頑張りすぎない集中の仕方を学ぶ。

響きあうためには、
かたさをとらねばならない。
響きあえる状態に心や体をもっていく。
体を和らげ、ワタクシ(自我)をしなやかにする、ということかしら。
その方法がオイリュトミーによるからだづくりなのではないかなと、思う。

自分と他者、個人と世界。
それらの「あいだ」に発生し育まれてゆくものがあると思う。
「響き」は、その一つだ。
何かと何かが揺さぶり合う、振れる、響く。

響きあうことで、第三の何かが生まれてくる。
僕らは、それを敏感に察知して影響を受けることで、日々新しくなれているように思えてならない。

響きあう力。
響きあえる状態。

踊りを通じて、しばしばそれらに、思いをはせる。
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