ハンマーヘッドが裸の人だ。この鉄槌で何を叩くか。どついてやる、と思っていた奴に振り下ろすとき、この裸の人もまた悲鳴をあげるか。いや、だけどこれは凶器でなく彫刻なのだと思い直すのだった。
「アルティザンって何だよ?」ときくと「まあ、職人だけどね」と答えた。その眼つきがキていた。話しがひろがり、時間を忘れた。日本橋の高島屋本店で開催されている藤井健仁展「アブジェクションX」(写真上は展示作品のひとつ)でのこと。タイトル案出に関わらせてもらったが、ハズレなし。
彫刻家の藤井は旧友だが創作面でも何度か組み過ごしてきた。いらだちと怒りの領域で、どこか近しさを感じてきた。昨秋の彫刻展では超久しぶりに共同作業をやろうダンスか何かをということになり、京都公演「絶句スル物質」(京都場アート講座)を行なった。
展覧会のオープン祝儀の踊りとかではなく本格的な公演のかたちでやるべきとなって時間も労力もかけ、全てを京都場ディレクターの仲野氏が受けとめてくださって実現に至った。藤井との仕事には本当は「こらぼ」などという平べったい言葉よりも「共犯」とか「共謀」のほうが良かったのかもしれないと今おもう。
あのとき話した膨大な言葉のカオスを思い出しながら銀座をふらつき日本橋に着いたが、その入口の紹介文に出てきた一言が、文頭のアルティザンだった。artisan。技術偏向への批判にも使われたというその言葉を、わざと入口に提示するとは挑発的ともお洒落とも思ったから、それで、アルティザンって何だよ?ときくと、職人だけどね、と答えた。昔の言葉ですけどね。このごろは「チ」なんですかね。だくだく矢継ぎ早に話すなかに、手仕事への、もしかすると手そのものへの偏愛が感じとれた。
手をかけて何かをつくる。欧州などに比べ日本の美術教育では技術が重視されるという。それを「古い」ととる人もいる。僕は身体的なものへの信頼と感じている。グローバリズムや資本主義が見捨てようとするものが、技術には、身体性には、習熟性には、修行的行為には、つまり個的な空間には、あるように感じてならない。
素材の一貫性と作業痕跡の生々しさこそが藤井の良さだと僕は感じてきた。モチーフや雰囲気や仕上がりの感じとは別に、そこには何か大事なものを感じる。藤井における素材の一貫性とは鉄である。作業痕跡の生々しさとは手の仕事の痕跡である。鉄は意味の金属だ。それを語る言葉は山ほどある。手仕事について語る人も多数あるだろう。しかしそれらの素晴らしさと個(ワタクシあるいは謎)の関わりを表現することができるのは作品、それも特定の作品だけかもしれない。
これは僕が気に入った藤井の作品のひとつ。コトバ化しやすいコードが無く、作業仕事の原因と痕跡だけを感じる。下は昨年ともにした公演のなかでこの作品に関連したシーン。
たやすく他者と共有できないものへの、解釈が困難な何かへの、生理的な執着や失念や嫌悪や絶望や愛情や枯渇が持続と継続を生むことを、僕の場合は「ダンス」から学んだ。その感触にどこか通じるものを、藤井の作品群、いや、作業群から、僕は感じ勝手に共感している。
展示や作品の印象は書かないままにしたい。まず言葉なしに見てほしい。年明け6日まで。
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