12月27日の金曜、ダンスクラスは今年の踊り納めだった。
第九を全曲、踊ってもらった。ベートーヴェンの第九交響曲は1時間を軽く超える。音楽であり、劇であり、祈りだ。そのあらゆる瞬間が怒濤であると僕は捉える。このエネルギーの嵐をカラダで味わう体験をしてもらいたかった。
2度はやらないです、やるとすれば来年の末になります、完全に即興でお願いします。と言って始めた。そして踊っている身体に、かけられるだけの声をかけていった。終わったあと、クラスメンバーの一人一人の表情がその人の顔そのものに深まっていた。音楽の熱を、踊りの知を、あらためて思った。
いまここで響く響きに身を任せることができる、ふと思うことが踊りになる、そういうことができるように、つまり、いつでも踊れるカラダを、専門用語をつかえばインプロヴィゼーションができるダンストレーニングをしてゆくのがこの金曜クラスの稽古。それは感動と体のミキシングであり、発想力のトレーニングでもある。そして同時に、自分自身の身体を活かした等身大のダンスを探し見つけ実現してゆく場でもある。今年はどうでしたか、と言葉で訊くのではなく、踊る姿でこの一年の実感を確かめてみたかった。
朝比奈隆さんが振る大阪フィルはじめ、第九の感動は沢山ある。そのなかで、フルトヴェングラー盤の凄まじい鑑賞体験と、もうひとつ、バレンボイム盤を聴いたときの深い感動が、きょうのクラス案のもとになった。ユダヤ人の音楽家バレンボイムとパレスチナ人の哲学者サイードの音楽的対話は世に名高い。共存への思いがこもった特別な演奏なのではないかと僕は思っている。
刻一刻と自らの心に起こる波を体の動きにあらわしてゆく。音楽とは「聞く耳を持つということ」というバレンボイムのメッセージを読んだことがある。これは、ダンス身体(おどるからだ)の軸そのものにも重なりがあると僕は思う。何かに対する共感から、肉体を熱し揺する。空間や時間をも共振させ、ともに変容してゆく。まず、他者をきこうとする。そこから始まってゆくということがダンスの良さだと思う、思いつづける。踊る体は感動する体なのだと思う。
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櫻井郁也/十字舎房:ダンス公演サイト Stage info.=Sakurai Ikuya dance solo
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