終演後の劇場を片ずけて、明かりを消す。
舞台がはねて真っ暗になった劇場は無性に美しい。
劇場特有の、なにか新しいものを呼びこむような力を感じる。
踊るのが好きなら、観ることも好き。
観客としての僕は色んな人の踊りを見るわけではなく、何度も何度も同じ人の踊りを観ていて、それがいつしか他にかえがたい楽しみになっている。
さまざまな踊りを観るよりも、好きと感じた限られた人の踊りを何度も何年も、繰り返し観ていると、少しづつ踊りが変わり作品が変わり身体が変わり、踊り手が生きているその生そのものに出会っていることを、段々と感じてくる。
共に在る感覚、というのか。同じ時を生きる人が、同じ時の流れのなかで感じたりイメージするものから受け取る共感や違和感や驚き。それらが、踊りなるものを通じて、生活に繊細な息吹を注いでくれる。
凄いと思う時も、少し物足りない時も、そのどちらも、次は、いまは、どうなるのかな、と気になってまた観に、行く。
友達や家族とはまた違う、人と人との関係が、観るという行為のなかで膨らんでゆく。
人生の軌跡に立ち会うような喜びや興味が、とてもゆっくりと膨らんでゆく。
そして観つめながら、変化してゆく自分自身をも、見つめ感じている。
だから、観続けているダンサーは、とても大切な人になっている。
舞台がはねて真っ暗になった劇場は無性に美しい。
劇場特有の、なにか新しいものを呼びこむような力を感じる。
踊るのが好きなら、観ることも好き。
観客としての僕は色んな人の踊りを見るわけではなく、何度も何度も同じ人の踊りを観ていて、それがいつしか他にかえがたい楽しみになっている。
さまざまな踊りを観るよりも、好きと感じた限られた人の踊りを何度も何年も、繰り返し観ていると、少しづつ踊りが変わり作品が変わり身体が変わり、踊り手が生きているその生そのものに出会っていることを、段々と感じてくる。
共に在る感覚、というのか。同じ時を生きる人が、同じ時の流れのなかで感じたりイメージするものから受け取る共感や違和感や驚き。それらが、踊りなるものを通じて、生活に繊細な息吹を注いでくれる。
凄いと思う時も、少し物足りない時も、そのどちらも、次は、いまは、どうなるのかな、と気になってまた観に、行く。
友達や家族とはまた違う、人と人との関係が、観るという行為のなかで膨らんでゆく。
人生の軌跡に立ち会うような喜びや興味が、とてもゆっくりと膨らんでゆく。
そして観つめながら、変化してゆく自分自身をも、見つめ感じている。
だから、観続けているダンサーは、とても大切な人になっている。