水曜夜のクラスはオイリュトミーの練習。で少し話したのは、様々なダンスのなかでオイリュトミーの特徴は何かということだった。
僕らダンサーは(良し悪しの議論はあるが)バレエから生まれた様々な動きを学んだし教えもしている。そこに個人個人が独自に学んだり開発した動きが溶け合い、現代ダンスは変化してきた。
僕の場合はモダンダンス・体操・演劇・打楽器演奏などの体験が技術的に強く影響しているかもしれない。しかし技術よりもっと大きな影響を僕は土方巽さんの晩年の僅かに観ることが出来た舞台の強い共感から、そして、実に対照的な「オイリュトミー」と名付けられたドイツ舞踊の修行から得た実感がある。
オイリュトミーは知る人ぞ知る舞踊メソッドだが、バレエとは全く別の視点から踊りの面白さ広さ深さを教えてくれる。
それは自分を表現する踊りではなく、他者の言葉や歌を味わい理解するための踊りだ。踊ることで他者の気持ちに触れようとする、踊ることで環境に触れたり世界を味わい楽しもうとするダンス。いわば知覚を拡大するダンス、それがオイリュトミーだった。
突出した身体能力を求めない無理のない運動にカラダはほぐされ、周囲への注意深さを生む。響きを傾聴しながら全身を動かすことで感情が血を通わせ、様々な感覚が目覚めてゆく。さらに練習をすることで、全身全霊で空間と語り歌い遊ぶような踊りに発展してゆく。動くメディテーションとも言える。動く思索とも言える。語る身体、歌う身体、とも。
(僕は専門家養成の過程だったから集中的に毎日何年も修行みたいに漬かりこんだが、もっと日常生活と一緒に楽しみながら練習する方が良いのではと思ってプログラムを考え一般クラスを開いていて、やはり温かい踊りが生まれている実感がある。踊りと実生活は、やはり一つなのだろう。これからは暮らしの匂いや仕事の苦楽を滲ませたダンスこそが本当の踊りとして出てくる時が来ると思う。ところで、、、。)
オイリュトミーは1912年に思想家ルドルフ・シュタイナーや元女優のマリー・シュタイナーらが生み出した。ニジンスキーやヴィグマンやダンカンの踊りが世間を驚かせ、音楽も美術も革命期に入り、政治も経済も揺れに揺れた時代。より強烈な個の確立を求めた時代にありながらも、むしろ受動的で内省的な体験を重視する踊りとして生み出されたオイリュトミーは、ある意味ラディカルだったのではないだろうかと僕は思う。オイリュトミーは自分の思いを伝える以上に、詩や音楽に寄り添ってそれらの内容を、客観的に舞踊化しようとする。たとえば親が子に絵本を読み聞かせるような態度で、とでも言えるかもしれない。
このオイリュトミーには、決まった準備運動が幾つかあり、レッスンでも一人稽古でも毎回やる。肉体を緩め、神経を落ち着ける。
そのなかに「イッヒ デンケ ディー レーデ」と呼んでいる所作の連続がある。ご想像通りドイツ語。「私は言葉を考える」という意味だが、トントンツーという感じのリズム感がカラダに響く。
小理屈を言うと、言葉デ考える、ではなくて、言葉ヲ考える、といのが面白い。「で」と「を」では大違いだ。しかも、これから踊るゾという気持ちの準備のときに「考える」という言葉を運動に転じるのは面白い。言葉に振りが付いていて、胸あたためるように胸元に置いた両手を、背筋を伸ばしながらパッと空気一杯に拡げ、気持ちを明るく解き放つ。「私は言葉を考える」という内省的な言葉に合わせて、シャキッと背を伸ばして全身を元気一杯に明るく空間に解放する。この動作、心と体のシンクロナイズから、オイリュトミーの練習は始まる。
何回やったかわからないが、未だにこの一振り一言で身も心もスッと透明になるのだから不思議だ。
単純で誰にも思いつきそうだが、なかなかそうはいかない振りと言葉の組み合わせだと思う。
動きによって言葉の本質が意識の奥に届くのだろうか、或いは、言葉を聴きながら動くことによって普段は脳のなかで眠っているスイッチが一つパチリと入るのだろうか。そんな振りと言葉の組み合わせや振りと音の組み合わせが、オイリュトミーには沢山ある。
僕らオイリュトミストは、それをゲステ(ドイツ語で型とかジェスチャーの意味だ)と呼び、気に入ったテクストや楽曲に、それらを取り入れて踊る。
また、テクストや楽曲には呼吸感やリズムやノリがあるが、それらをヴァイブレーションの波として捉え、身体と空間が戯れてゆくように踊りを膨らませてゆく。これをオイリュトミーフォルムと呼んでいて、バレエやモダンダンスのフロアパターン(動線)に近い。
ゲステは目覚めの瞬間を呼び、フォルムは感動の波打ちとも言える。
テクストから他者の言葉を傾聴しながら、あるいは楽曲から他者の唄に耳澄ましながら、それらに潜在する何かに目覚め気づき感覚や感情を拡大してゆく。それがオイリュトミー独特の踊り方だ。
自分の思いを伝達する表現と一味ちがうところは、踊ることで他者の心を理解しようとするところであり、充実感もまた同じで他者への共感性にある。何度も踊っているうちに、その言葉が腑に落ちてくる、その音楽の底に眠る感情がわかってくる。他者があり、そこに自分の知らなかった世界が広がっている。踊りながら、それを味わい、関係を紡ぐ。自分を開く。
そう思うと、最初に書いた「私は言葉を考える」という準備運動の意味も少しは感じ取ることができそうだ。
オイリュトミーにとって言葉すなわちロゴスとは、関係のエネルギー。他者の心と自我を結ぶ働きそのもの、いや、存在者すべての魂力を示唆するものなのかもしれない。
道具としての言語ではなく、語ろうとするエネルギー。衝動そのもの。
胸中に静かに轟く発話発現以前のカオス。
それら全てをコトバと仮に呼ぶならば、言葉とは内界に広がるイノチそのものだと解釈することも出来なくはない。
広大に広がるイノチの響き、としてのロゴス・言葉。
「私は言葉を考える」とは、私はイノチの響きに耳を澄まし感じ理解しようとする、という読み替えも出来そうだ。
シュタイナーは膨大な講演を行いながらアクティブな実践作業に挑戦したが、その一つが身体へのアプローチとしてのオイリュトミーの考案だ。語り、奏で、踊り、、、という私たちの行為の根底には、どのようなエネルギーが渦巻いているのか。哲学から生身の人間のカラダへ、そして建築へ、有機農業の開発へ、自由教育の実践者へ、最後には未来の経済学構想へとシュタイナーは行動してゆく。何かを悟り語る人から、様々な人と対話し具体的なアクションをする人へ、試行錯誤の人へ、とシュタイナーが歩むなかで生まれたのが、女優で妻であるマリーとの共同作業である「オイリュトミー」の創案と実践だったのだろうか。それが何よりも関係のダンスである点は、とても魅力的だと思う。他者の言葉や音楽に関わる面白さや喜びを知ろうとする。それがオイリュトミーには含まれてあるのではないかと、僕はしばしば感じる。
言葉や音楽に関わることは、他者の魂に関わることでもあるし、それは絶えず心を動かし入れ替えてゆくことにも繋がると思う。
たとえばそんな色々な想像を膨らませながら、背を伸ばし胸から両手を広げると、なんだかワクワクして、いい感じの緊張感と躍動感が湧いてくる。人と、空間と、時と、関わりたくなる。
つまり、
踊りたく、なる。
僕らダンサーは(良し悪しの議論はあるが)バレエから生まれた様々な動きを学んだし教えもしている。そこに個人個人が独自に学んだり開発した動きが溶け合い、現代ダンスは変化してきた。
僕の場合はモダンダンス・体操・演劇・打楽器演奏などの体験が技術的に強く影響しているかもしれない。しかし技術よりもっと大きな影響を僕は土方巽さんの晩年の僅かに観ることが出来た舞台の強い共感から、そして、実に対照的な「オイリュトミー」と名付けられたドイツ舞踊の修行から得た実感がある。
オイリュトミーは知る人ぞ知る舞踊メソッドだが、バレエとは全く別の視点から踊りの面白さ広さ深さを教えてくれる。
それは自分を表現する踊りではなく、他者の言葉や歌を味わい理解するための踊りだ。踊ることで他者の気持ちに触れようとする、踊ることで環境に触れたり世界を味わい楽しもうとするダンス。いわば知覚を拡大するダンス、それがオイリュトミーだった。
突出した身体能力を求めない無理のない運動にカラダはほぐされ、周囲への注意深さを生む。響きを傾聴しながら全身を動かすことで感情が血を通わせ、様々な感覚が目覚めてゆく。さらに練習をすることで、全身全霊で空間と語り歌い遊ぶような踊りに発展してゆく。動くメディテーションとも言える。動く思索とも言える。語る身体、歌う身体、とも。
(僕は専門家養成の過程だったから集中的に毎日何年も修行みたいに漬かりこんだが、もっと日常生活と一緒に楽しみながら練習する方が良いのではと思ってプログラムを考え一般クラスを開いていて、やはり温かい踊りが生まれている実感がある。踊りと実生活は、やはり一つなのだろう。これからは暮らしの匂いや仕事の苦楽を滲ませたダンスこそが本当の踊りとして出てくる時が来ると思う。ところで、、、。)
オイリュトミーは1912年に思想家ルドルフ・シュタイナーや元女優のマリー・シュタイナーらが生み出した。ニジンスキーやヴィグマンやダンカンの踊りが世間を驚かせ、音楽も美術も革命期に入り、政治も経済も揺れに揺れた時代。より強烈な個の確立を求めた時代にありながらも、むしろ受動的で内省的な体験を重視する踊りとして生み出されたオイリュトミーは、ある意味ラディカルだったのではないだろうかと僕は思う。オイリュトミーは自分の思いを伝える以上に、詩や音楽に寄り添ってそれらの内容を、客観的に舞踊化しようとする。たとえば親が子に絵本を読み聞かせるような態度で、とでも言えるかもしれない。
このオイリュトミーには、決まった準備運動が幾つかあり、レッスンでも一人稽古でも毎回やる。肉体を緩め、神経を落ち着ける。
そのなかに「イッヒ デンケ ディー レーデ」と呼んでいる所作の連続がある。ご想像通りドイツ語。「私は言葉を考える」という意味だが、トントンツーという感じのリズム感がカラダに響く。
小理屈を言うと、言葉デ考える、ではなくて、言葉ヲ考える、といのが面白い。「で」と「を」では大違いだ。しかも、これから踊るゾという気持ちの準備のときに「考える」という言葉を運動に転じるのは面白い。言葉に振りが付いていて、胸あたためるように胸元に置いた両手を、背筋を伸ばしながらパッと空気一杯に拡げ、気持ちを明るく解き放つ。「私は言葉を考える」という内省的な言葉に合わせて、シャキッと背を伸ばして全身を元気一杯に明るく空間に解放する。この動作、心と体のシンクロナイズから、オイリュトミーの練習は始まる。
何回やったかわからないが、未だにこの一振り一言で身も心もスッと透明になるのだから不思議だ。
単純で誰にも思いつきそうだが、なかなかそうはいかない振りと言葉の組み合わせだと思う。
動きによって言葉の本質が意識の奥に届くのだろうか、或いは、言葉を聴きながら動くことによって普段は脳のなかで眠っているスイッチが一つパチリと入るのだろうか。そんな振りと言葉の組み合わせや振りと音の組み合わせが、オイリュトミーには沢山ある。
僕らオイリュトミストは、それをゲステ(ドイツ語で型とかジェスチャーの意味だ)と呼び、気に入ったテクストや楽曲に、それらを取り入れて踊る。
また、テクストや楽曲には呼吸感やリズムやノリがあるが、それらをヴァイブレーションの波として捉え、身体と空間が戯れてゆくように踊りを膨らませてゆく。これをオイリュトミーフォルムと呼んでいて、バレエやモダンダンスのフロアパターン(動線)に近い。
ゲステは目覚めの瞬間を呼び、フォルムは感動の波打ちとも言える。
テクストから他者の言葉を傾聴しながら、あるいは楽曲から他者の唄に耳澄ましながら、それらに潜在する何かに目覚め気づき感覚や感情を拡大してゆく。それがオイリュトミー独特の踊り方だ。
自分の思いを伝達する表現と一味ちがうところは、踊ることで他者の心を理解しようとするところであり、充実感もまた同じで他者への共感性にある。何度も踊っているうちに、その言葉が腑に落ちてくる、その音楽の底に眠る感情がわかってくる。他者があり、そこに自分の知らなかった世界が広がっている。踊りながら、それを味わい、関係を紡ぐ。自分を開く。
そう思うと、最初に書いた「私は言葉を考える」という準備運動の意味も少しは感じ取ることができそうだ。
オイリュトミーにとって言葉すなわちロゴスとは、関係のエネルギー。他者の心と自我を結ぶ働きそのもの、いや、存在者すべての魂力を示唆するものなのかもしれない。
道具としての言語ではなく、語ろうとするエネルギー。衝動そのもの。
胸中に静かに轟く発話発現以前のカオス。
それら全てをコトバと仮に呼ぶならば、言葉とは内界に広がるイノチそのものだと解釈することも出来なくはない。
広大に広がるイノチの響き、としてのロゴス・言葉。
「私は言葉を考える」とは、私はイノチの響きに耳を澄まし感じ理解しようとする、という読み替えも出来そうだ。
シュタイナーは膨大な講演を行いながらアクティブな実践作業に挑戦したが、その一つが身体へのアプローチとしてのオイリュトミーの考案だ。語り、奏で、踊り、、、という私たちの行為の根底には、どのようなエネルギーが渦巻いているのか。哲学から生身の人間のカラダへ、そして建築へ、有機農業の開発へ、自由教育の実践者へ、最後には未来の経済学構想へとシュタイナーは行動してゆく。何かを悟り語る人から、様々な人と対話し具体的なアクションをする人へ、試行錯誤の人へ、とシュタイナーが歩むなかで生まれたのが、女優で妻であるマリーとの共同作業である「オイリュトミー」の創案と実践だったのだろうか。それが何よりも関係のダンスである点は、とても魅力的だと思う。他者の言葉や音楽に関わる面白さや喜びを知ろうとする。それがオイリュトミーには含まれてあるのではないかと、僕はしばしば感じる。
言葉や音楽に関わることは、他者の魂に関わることでもあるし、それは絶えず心を動かし入れ替えてゆくことにも繋がると思う。
たとえばそんな色々な想像を膨らませながら、背を伸ばし胸から両手を広げると、なんだかワクワクして、いい感じの緊張感と躍動感が湧いてくる。人と、空間と、時と、関わりたくなる。
つまり、
踊りたく、なる。