ベーコンは陶酔をくれる芸術家の一人だが、この人の話したインタビューのなかで「偶然が生じなければ先に進まないとすら思えます」という一言が、あった。すごく納得のゆく一言だった。
僕ら人間は支配とかコントロールが好きなのか、出来事の行方をすぐに決めたくて原因も結果も理解したがるけれど、本当は何が何でどうなるかなんて分からない方がセクシーでデンジャラスなのだから、偶然というのは大切なことだと思う。思いのほか、案外、、、なんて、おおかたは素敵なのだ。
変な言い方かもしれないけれど、人生が魅力的なのも、不安だから、どうなるか分からないから、にちがいない。
踊りもそうなのではないかと、僕はときどき深く感じる。こうなりたい、こうしたい、というのでは下らないと思う、自分の内部に正解があると面白みがなく詰まらないのだと思う。わかりきった心には天使が降りて来ないのだろう。それから、こう勉強したのだ、こういうのが立派なのだ、という踊りは格式をよそおっているが、要するに昔の人などを真似ているのだから、偶然を楽しんではいないし、たぶん、思想が決まっているから、良し悪しが踊り手の心に決まっているのだ。僕は、そのような感じをあまり愛することができない。
踊りは偶然の連続であればあるほど、踊りに徹してゆく時間というか集中力が生まれ、その場所に熱が宿るのではとも、思う。なにがあるのかわからない、なにがおきるのかわからない、わたしもどうなるのかわからない、そういう次元こそ、肉体は肉体にナルのだなあと感じることが、僕はこのごろ多くなってきている。壊れる、生まれる、ということは偶然なしにアルのだろうか。
作品なるものをつくっているくせに矛盾しているかもしれないが、こしらえた作品というのは、実は、本番で、なにかが壊れ生まれ直す、というための場というか器なのかもしれない。作品そのものが完結した値打ちや意味をもつというより、作品から何か現場の「できごと」が始まるのでなければ、と思うことが、多い。作品をきっかけに予定や予想が困難な「うまれる」瞬間にエネルギーを注ぐのが僕の目指す独舞公演なのかもしれないと思うようになってきている。
作品というのは、時限爆弾みたいなものかもしれなくて、どうすれば火がつくかまではキッチリと決まっていても、どんな火がつくか、そして、どんな爆発が起きるか、ということは、これは火をつけてみなければ、誰にも分からない。作品は踊りのための器、とすれば、踊りそのものというのは、作者にさえ分からない無数無限の偶然を孕んだままの、物質と時間だけの秘密、なのではないか、と思う。さあ、ここから、、、。