photo and text=past work by Sakurai Ikuya
崩壊の轟音がきこえる。
あらゆる建築を崩壊させながら、あらゆる言葉が壊れてゆく。
そんなまぼろしとともに、
しずかに、そっと、轟音がとどろいてくる。
それはなにかがなにかを生み直し、
なにかがみずからを生まれ直そうとする、
深い沈黙の奥からの、きたるべきものの産声でもある。
沈黙。
無数の日々から、無数の感情から、沈黙は生まれてくる。
無限の飽和から、無限の麻痺から、沈黙は生まれてくる。
ただただ、ただこのいまを、そのただなかで生きる、
その日々のなかで、いつしか、
沈黙が生まれ、生まれ出る沈黙が骨の髄を揺すり、
しずかな轟音がとどろいてくる。
そして、ない言葉、が魂の底に雨を降らせ、
かすかな何かが、息をはじめる。
ない言葉のために
(櫻井郁也・公演パンフレットより引用)
写真と引用テキストは『トラ・ラ・ラ』という作品からだが、これは、いまやっている作業にもかなり影響を与えている作品だと思う。
テキストからは想像しにくいかもしれないが、元はと言えば、ある古い歌から想像が広がって作品化したもので、題名もこれは古い歌の掛け声。
この上演を通じて、踊る、というエネルギーの働きが、なにかしら、歌う、ということにも相似しているのではと思うことがたびたびあって、あれから、古い歌を探し聴くことがよくある。誰が歌ったのかどころか、いつ頃どこら辺で歌われていたのかさえ、もはや分からないものもある。歌うことは、過去からの何かを紡ぎ続けることでもあるのではないかと思えてくることがある。
そういえば、バルトークは古い歌を書き留めて現代に残そうとした人の一人だが、失われてゆくことを予感しながら書き留めたのではないかと思えるような独特の凄まじさを感じることが時にある。彼の曲を聴いたり稽古したりしていると何者かが鼓膜や毛穴から体内に入ってきて心臓を掴むような心地になることもあり、畏怖する。膨大な古謡を収集しながら、彼はどんな思いを抱いていたのか。
誰かが現在の思いや夢見を吐露するという表現も面白いけれど、遠く消えてしまいそうなものを何かしらの形に留めようとしたり、失われたものを想像力を働かせたり調べたりして蘇生させよようとする表現も、やはり人間には切実なのかもしれない。
そのようなことが、ダンスにもあるのかもしれないと予感することもある。歌ほど具体的なことではないかもしれないのだけれど、ダンスというものを通じて、やはり、肉体の奥には祖先の生命が眠っているかもしれない、と思わせられるような感触が疼く。そんなことが、しばしばある。
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コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー
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