
こないだ日程発表した秋の新作公演への稽古が最初のヤマ場を迎えていて、おそらくこの何回かのランスルーから公演タイトルも決まると思います。
今回の新作は、言葉としての題名も、また一切の音源も無いまま、(いや正確に言うと偶然の音や未明の言葉の混沌するままに)身体の動きが先行してすでに2時間弱ほどのダンスを踊り続けていて、その身体体験と、いまはまだ題名も音楽も無いまま踊り揺らいでいる荒々しい何かから、言葉や音や、あるいは舞台美術や光や影といった様々なものが抽出されてゆく。そして、それらと対峙しながら、いまは予想さえまだ無い踊りを、やがて身体は身ごもり、観客席との関係のなかでパフォーマンスとして芽吹くのだろうと思うのです。
こうしたプロセスをスタッフは右脳型の作業だねと面白がっているが、僕自身からすると
、これでも考えて考えてやっているつもりで、ただ、考えるということが言語や音楽に至るより先に、肉や骨や血に運動化されてしまう。
まず踊ってみないとなにもわからない。踊ったあとに言葉やイメージが吃音しながらポツリと一つ出る。それが何らかの刺激になって、また直ぐに踊ってみるしか過ごしようのない時間を経て、、、。
という繰り返しの、思いと行為が逆走してしまうような感じの体験を重ねながら、出来たと思っては壊し、壊したところからまた起こし、という繰り返しのなかから、様々な知覚や想像力が揺らぎ、いつしか筋肉を始め肉体の組織ごと変化してゆくのでしょう。この速度感は、むしろダンス特有のことなのかもしれない。
ただ、以前からある種の世界観を表現するために踊りを「つくる」という作業の仕方になんだかオドリというイキモノを手段に貶めてしまうような心地悪さを感じてしまう僕にとっては、今回のようなプロセスは、とても自然です。
普段から思っていることが踊りになるのではなく、どうやら、踊っているときにだけ到来する何かがあるように思えてならない。
蓮實重彦さんが小説を向こうから来るから書かざるを得ない、と言っていらしたのを読んだことがあるが、僕のダンスの場合も、踊りが身体を動かすとしか、やはり言えない。秋の熟する頃まで、おそらくは二転三転七転八倒を経て、ようやく一つのダンスが舞台に乗ることになるのでしょう。
さて、どんなダンスが現れるか、ドキドキしながら稽古を重ねていきたく思っています。
公演ホームページ http://www.cross-section.x0.com