櫻井郁也/十字舎房ポルトガル公演報告・最終回
第4章「ファロ公演~地の果てにあった懐かしさ」(3)
【ソールドアウト】
10月13日。ファロ公演、本番日。
この日は、フェスティバルの千秋楽。僕の他に、京都の由良部正美さん、オランダで活動するポルトガル人ダンサーのマリア・ラモスさんが公演。(お二人ともエレガントかつ、なかなかの強者、そして、人間的にも魅力あるプロ。同じ舞台が踏めて感謝。)そして、ステージのあとは、深夜まで及ぶパーティー&ビデオ上映でフェスティバル全体の幕となります。
チケットは、ソールドアウト。
20名以上の人がキャンセルを待っている状態になっています。
いよいよ、この国での仕事納め。
いつもの美しい夕陽をながめ、教会の鐘をきいて、カラダに集中。
そして・・・。
【TABULA RASA】
舞台に出た瞬間、感じた視線の鋭さ。これは、何なのでしょうか。
ステージに立つ者には、強烈に観客の気持ちが伝わってきます。
楽しむことには命がけのラテン気質。そして、「美にはどん欲」。
生演奏の日本&ロウレー版に対して、このステージは、完全ソロバージョン。シンメトリカルな空間構成のなか、複雑な録音を経たサウンドコラージュとただひとつの肉体が、からみあいます。50分間ノンストップ/転換なし。ぎりぎりまで要素をそぎおとしました。
作品タイトル「TABULA RASA」とは、白紙還元という意味です。
この50分は、踊り尽くすことによる、身体浄化の風景でなければならない。
ステージの肉体は文字通り一つ。
丁寧に、かつ、叩きだすように踊る。シンプルに・・・。
そう決めて、一気にドライブをかけました。
恐ろしいような沈黙のなかで、踊る、というより「さらし続ける」という時間が流れていきました。
ワイルドな視線、骨を舐められるような眼差しです。
ここは、やはり宗教と芸術の国。働く場所、祈る場所、感受する場所、それぞれに人生がかかっているのでしょう。そんな人々にとって、劇場は教会に劣らぬ大切な場所。感性だけ、他に何も要らない場所・・・。
全開した毛穴から汗が体内に逆流し、ひりひりとした感覚。
麻痺する感覚のなかで、聞こえてくる呼吸音。
わずかな指先の動きが、ずしんと丹田を叩きます。
カラダが動いているんだな・・・。
ふと、そう感じた時、幕となりました。
作品とはいえども、生身の人間が生身の人間に向かい合う以上、そこには現在進行形の何かがあります。
この瞬間にしかない共有感があるからこそ、演者と見者との強い対峙関係が生まれ、その関係のなかで生成するものがある。それが舞台公演の味わいです。
この日、この場所で生まれたものは何だったのでしょうか。
【声・問いかけ】
みなさん、立ち上がって、とても長いあいだ拍手を下さいました。
深くお辞儀をするなかで、ループするように脳裏をよぎった言葉がありました。
「光あるうち光の中を進め。ヒカリアルウチ・ヒカリノナカヲススメ、ヒカリアルウチ・ヒカリノナカヲススメ、ヒカリアルウチ・ヒカリノナカヲススメ・・・。」
降って湧いたようにぐるぐると響くのです。トルストイだったと思うのですが、女の人の声で聴こえる気がするのでした。憑いているのでしょうか。拍手は続きますが、その向こうの真っ暗なところに、気持ちが行きました。何かが居るのかもしれない、何か知らないものが、、、。ひときわ大きく眼を凝らし、客席のさらに向こう側の暗闇を見つめるうち、この言葉は幽かになって消えました。
カーテンコールを2回おこない、あとは、空っぽの舞台が、そこに残され、カラダにも心にも、何もない空間がぽっかりと口を開いています。それは、とても美しい空白です。
僕にとって、作品とは問いです。
作品が成立した時、それはこちらに問いかけを始めるんです。
ワタシは誰?そしてワタシを生んだアナタはナニモノなのか?と。
ここにきて、挑戦が始まった気がします。
【廃墟の礼拝堂で】
ファロを後にして、僕らはリスボンへ。
全ての仕事を終え、ポルトガル最後の思い出にと立ち寄ったのが、ここ、カルモ教会跡です。
坂道が複雑に交差し、立体的な迷路のごときリスボン中心街。
その一角にある小さな入口をくぐり抜けたとたん、目の前に広がる光景に唖然。
ここは、周囲の壁と列柱を残し、すっかり屋根が抜け落ちた巨大な礼拝堂の廃墟なのです。
リスボン大震災の遺構とのことですが、その由来をこえて、豊かな詩情がこの場所にはあふれています。
緑の芝生に点在する瓦礫、壊れてなお微笑する天使像・聖人像の数々。
石の巨大アーチによって青空に描かれる、危うい放物線。
天を突き刺すような列柱群。
静寂。
廃墟の壁には祈りの声が封印されているようです。
佇むうち、雨が降り始めました。
大粒の雨がどっさり。
なのに、太陽が燦々と輝いている・・・。
長かったこの旅で、始めての雨。お天気雨です。
まぶしい太陽光を受けて、キラキラと雨が降ります。
スッと力が抜けていくのを感じました。
こころの奥には、そこはかとなく笑いがこみあげてくるようです。
一体何がおかしいんでしょうか。いいえ、おかしいのではありません。
僕は、ただ、心の底からほっとしていたのです。
ただ、カラッポになっている。それだけ・・・。
巨大な礼拝堂の廃墟に、光の粒が天から降り注ぐようです。
【人生への生真面目さ~フェスティバル雑感】
振り返ってみれば、すべては出会いから始まりました。
今回のアーチストは、日本側の組織や批評家などなどを通さずにディレクターが、直接来日して、自分の足と眼で選ばれました。
興味がある。我々は今、東京に来ている。会わないか・・・。
さすがにびっくりしたけれど、今考えればすごい行動力です。
だれかの推薦や評判ではなく、直接眼で見て、人物と会う。という方針なのだそうです。たしかに独特のアーティストチョイスでした。当たり前と言えばそれまでですが、なかなか出来る事ではない。
そんなことを彼らは10年以上も持続してやっている。
そして、大きなプロジェクトなのに、彼らは器用さを用いませんでした。
家族のような少ない人数で、てんてこ舞いしながら世界を飛び、自力で見つけたアーティストを地元に紹介していく。
感情を露骨に表し、困り果てながら、ひとつひとつの舞台を手作りしていく感じがありました。
いまだに色んな事を思い出します。正直、大変だったけれど、手応えのある公演旅行でした。
何よりも、頑なまでに自分の眼を信じる姿勢。そこには、学ぶべきものを感じました。
彼らをはじめ、この土地に来て、ずいぶんいろんな人と出会いましたが、ポルトガルの人々に対して今思う事は「人生に対する生真面目さ」。
彼らは、与えられた人生を満喫する事に、使命感さえ持っている感じがしました。
彼らは、すごく大事に自分の命を生きている。
だからこそ出来るんでしょう。「生身の人付き合い」を大事にしてくれます。
山あり谷ありの道中、人との出会い・付き合いの中で、他人への警戒心やバリアーを見事に感じませんでした。トラブルや感情の行き違いは沢山あった。けれども根本に「道徳」というものが、まだ生きている社会、人と人がぶつかりあっても大丈夫な社会です。
僕ら日本人は、どうでしょうか・・・。
行く先々で日本の現代に対するあこがれの言葉を聞きました。ポルトガルの人々は、日本にまだ、夢を持っていてくれます。単なる異国趣味ではなくて、同じ現代を生きていく人間の共同体として、何かを学ぼうとする態度で日本および日本人を見つめているのです。
オリーブとブーゲンビリア、眼もくらむ光の洪水と白い街、食と芸術に酔いながらもどこか哀しげな、地の果て・時の果てを見つめているような、あの人々の表情を、忘れる事ができません。
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長々と展開した、この報告。これで、とりあえずの完結ということに。
当初の予定よりも、記事の量も連載時期もかなり多くなってしまいました。
もちろん、まだまだ書ききれていない事柄もあります。舞踏や身体についてのまなざし、作品創造への新たな課題、西欧と日本の文化差異・・・。この一連の記事を書き公演旅行を総括しつつ、多くのテーマにぶつかりました。そのあたりは、今後あたらしいトピックで、また書いていきます。
最後になりましたが、このツアー実現のために、僕らはとても多くの方々のお世話になりました。No Fundo Do Fundo/Portugal, Japan Foundation/Japanはじめ、この公演旅行を支えて下さった団体・個人の皆さんに改めて謝意を表します。本当に、ありがとうございました!今後とも、十字舎房のステージプロジェクトをよろしくお願いします。
※この記事は2006年9月~10月に行われたPortugal " a sul" International Contemporary Dance Festival招待公演の報告です。
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【Coming Stage】
櫻井郁也ダンスソロ・次回公演
In the attachement please find the detailed program.
Sakurai Ikuya Official HP (JP/ENG)