今日はダンスクラスがありました。いまは、いくつかの作品を育てています。
1=クラシック小品によるエチュード
(同じ動きを共有するなかで、伸びやかな身体の流れをさぐる)
2=アヴァンギャルドなロックミュージックによる講師振付作品
(リズムのなかで湧き出る感情を全身に反映/個々のからだを使い切る)
3=ミニマルミュージックによる即興と空間構成の練習
(運動によるエネルギー交換、果てしない空間のひろがりを体験する)
今日は上記1の、エチュード=練習作品の振付日。カッチーニという人が作曲したアヴェマリア(シンプル&優しく、哀しい)
をダンスにするというもの。お祈りの曲です。お祈りは、ダンスの原点だそうです。
お祈りって、大変な時にこそやりますよね。大きな課題をかかえちゃったり、心底こまったり、逆にえらく嬉しい時もやります。その姿はきっと美しい。一見静かだけれど、内面は真っ赤な炎が燃えていて、真っ正直な人間の姿が見えるのではないか。ウソつきは祈りませんし、斜に構えていたり、傲慢になっている時は誰も祈ったりしませんもの・・・。
ということで、振りのモチーフは燃え盛る炎のゆらぎ。炎がもつ、絶えざる動きとリズム。完成の暁には、美しいメロディーにのって、「個々の現代への祈りを炎のような動きに託す!!」という作品。今日はその流れをおぼえる作業が中心でした。
「振りを入れる」なんていう言葉でやってますが、ダンスのなかではちょっと大変な作業です。解説を入れたり、一緒に動いてみたり。何度も何度も流れを返しました。で、いっぱいつまづいて、「これからもよろしくね」って、皆で帰りました。
当然、まだまだ地味な練習。イメージはまださまざま。思い通りに体は動いてくれません。いろんな距離を、稽古によって埋めていこうとする、その第一段階の途上です。でも、こんな日にかぎって、一緒に稽古する仲間たちに感謝したくなります。なぜでしょう・・・。
ところで、僕のクラスで作品を創るときは、あまり予習をしてがんばるのではなく、「稽古場での集中」によって、おぼえるようにしてもらっています。ひとつには、充分に体を動かせる状況と、振付け者や一緒に踊る仲間とのダイレクトなコミュニケーションのなかで、振りを納得していってもらいたいから。もうひとつには、日常生活と稽古のメリハリをはっきりとつけてもらいたいから。どっぷりと日常を暮らしてこそ、夢もまた輝く。芸術という地平が曰く言いがたい大切さをもち始めるのだと思うので。
この方法は時間がかかるのですが、そのぶん浸透度が深く、地に足がついた踊りになります。しっかり集中して、しっかり「忘れる」。遠い記憶をまさぐりながら、また集中して・・・。その繰り返しの中で、「身に付いた」何かが、語り始める。スローですが、確かです。
僕の持論では、振りをおぼえるには、少なくともその振りを構想したのと同じ時間がかかります。
一つの振りは、時間に直せばほんの数秒ですが、「こんなふうにしてもらおう」と決めるまでには時には何週間もかかっていますし、瞬時の思いを一気にあらわす即興と対照的に、「振り」とは何度も何度も試行錯誤して出てくる身振りです。また、即興は動いている本人の言語、対して「振り」は他人の言語=異文化です。振りを通して、振付者の文化に触れる。即興を通して、メンバー同士の文化に触れる。自分の言葉を思いっきり発したり、他人の言葉を一生懸命まねていったり・・・。そんな往復がダンスクラス。
ダンスって、実は異文化交流なんだなあ、なんて僕は思っています。パーソナルな文化の交換を重ねながら、「人間」を感じ合えたらいいな、と思うんです。ことばが、唯一人間同士のコミュニケーションの中で獲得されるのと同様、振りもまた、直接のコミュニケーションのなかでこそ「通じる」ものになっていきます。時間をかけて、その時間の中で、できるかぎりの関係を築き上げたいものです。
あっ。少々予告を・・・。おそらく、この作業が落ち着いたら上記2番へ、さらに3番へと、稽古の比重がシフトしていくと思います。要するにどんどん自由度を増やしていく・・・。でも、これらの課題はあくまで素材。稽古の主題は身体のコミュニケーションと新しい自分の発見です。今後の展開、乞うご期待。
クラス紹介&参加方法
1=クラシック小品によるエチュード
(同じ動きを共有するなかで、伸びやかな身体の流れをさぐる)
2=アヴァンギャルドなロックミュージックによる講師振付作品
(リズムのなかで湧き出る感情を全身に反映/個々のからだを使い切る)
3=ミニマルミュージックによる即興と空間構成の練習
(運動によるエネルギー交換、果てしない空間のひろがりを体験する)
今日は上記1の、エチュード=練習作品の振付日。カッチーニという人が作曲したアヴェマリア(シンプル&優しく、哀しい)
をダンスにするというもの。お祈りの曲です。お祈りは、ダンスの原点だそうです。
お祈りって、大変な時にこそやりますよね。大きな課題をかかえちゃったり、心底こまったり、逆にえらく嬉しい時もやります。その姿はきっと美しい。一見静かだけれど、内面は真っ赤な炎が燃えていて、真っ正直な人間の姿が見えるのではないか。ウソつきは祈りませんし、斜に構えていたり、傲慢になっている時は誰も祈ったりしませんもの・・・。
ということで、振りのモチーフは燃え盛る炎のゆらぎ。炎がもつ、絶えざる動きとリズム。完成の暁には、美しいメロディーにのって、「個々の現代への祈りを炎のような動きに託す!!」という作品。今日はその流れをおぼえる作業が中心でした。
「振りを入れる」なんていう言葉でやってますが、ダンスのなかではちょっと大変な作業です。解説を入れたり、一緒に動いてみたり。何度も何度も流れを返しました。で、いっぱいつまづいて、「これからもよろしくね」って、皆で帰りました。
当然、まだまだ地味な練習。イメージはまださまざま。思い通りに体は動いてくれません。いろんな距離を、稽古によって埋めていこうとする、その第一段階の途上です。でも、こんな日にかぎって、一緒に稽古する仲間たちに感謝したくなります。なぜでしょう・・・。
ところで、僕のクラスで作品を創るときは、あまり予習をしてがんばるのではなく、「稽古場での集中」によって、おぼえるようにしてもらっています。ひとつには、充分に体を動かせる状況と、振付け者や一緒に踊る仲間とのダイレクトなコミュニケーションのなかで、振りを納得していってもらいたいから。もうひとつには、日常生活と稽古のメリハリをはっきりとつけてもらいたいから。どっぷりと日常を暮らしてこそ、夢もまた輝く。芸術という地平が曰く言いがたい大切さをもち始めるのだと思うので。
この方法は時間がかかるのですが、そのぶん浸透度が深く、地に足がついた踊りになります。しっかり集中して、しっかり「忘れる」。遠い記憶をまさぐりながら、また集中して・・・。その繰り返しの中で、「身に付いた」何かが、語り始める。スローですが、確かです。
僕の持論では、振りをおぼえるには、少なくともその振りを構想したのと同じ時間がかかります。
一つの振りは、時間に直せばほんの数秒ですが、「こんなふうにしてもらおう」と決めるまでには時には何週間もかかっていますし、瞬時の思いを一気にあらわす即興と対照的に、「振り」とは何度も何度も試行錯誤して出てくる身振りです。また、即興は動いている本人の言語、対して「振り」は他人の言語=異文化です。振りを通して、振付者の文化に触れる。即興を通して、メンバー同士の文化に触れる。自分の言葉を思いっきり発したり、他人の言葉を一生懸命まねていったり・・・。そんな往復がダンスクラス。
ダンスって、実は異文化交流なんだなあ、なんて僕は思っています。パーソナルな文化の交換を重ねながら、「人間」を感じ合えたらいいな、と思うんです。ことばが、唯一人間同士のコミュニケーションの中で獲得されるのと同様、振りもまた、直接のコミュニケーションのなかでこそ「通じる」ものになっていきます。時間をかけて、その時間の中で、できるかぎりの関係を築き上げたいものです。
あっ。少々予告を・・・。おそらく、この作業が落ち着いたら上記2番へ、さらに3番へと、稽古の比重がシフトしていくと思います。要するにどんどん自由度を増やしていく・・・。でも、これらの課題はあくまで素材。稽古の主題は身体のコミュニケーションと新しい自分の発見です。今後の展開、乞うご期待。
クラス紹介&参加方法