櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演2024年7/13〜14 ◉コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

音が与えてくれる心、、、(櫻井郁也ダンスノート5/15.2020)

2020-05-15 | ダンスノート(からだ、くらし)

音が与えてくれる心、というものがある。

ダンスを通じて、そんなことを思うことが多かった。

 

活動自粛となって以来、

公演作品とは別に、

ただ純粋に音楽を踊りたくて、ひとり稽古をしている。

 

そのなかに、マーラーの亡き子を偲ぶ歌」という題名の曲集があり、

新しい思いを導いてくれた。

 

長く、ずっと心にあった曲だが踊ることはこのたびまでなかった。

壮大なシンフォニーにもかかわる歌・旋律・情。

 

踊らなければ聴こえてこないものが、

この音楽にはものすごく詰まっている。

 

受容。

 

音楽に射つらぬかれることから、はじまる。

 

いまはスタジオがないから、自宅の片隅で稽古する。

生活空間の一部で我を壊しくだくのはなかなか難しい。

発表とか作品とか言う前に、ただただ「聴く」ために稽古する。

 

修業時代の感覚に戻っている。

さぐる。さがす。

というようなことを、なぜか無性にしてしまう。

 

踊りの種はあらゆるところにあるが、

聴覚と舞踊感覚との関係には特別なものがあるように思う。

過去作の「かなたをきく」という公演の根にあったテーマにもつながる。

 

 

存在することについて、

希望について、

とてつもない深さと広さを、

マーラーのこの歌はあらわし響き渡る。

 

音楽にひたすら溶け込もうとする。

それは、タマシイに身をゆだねることにも似ている。

これは、ダンスの醍醐味のひとつかもしれない。

 

音楽はタマシイの声で、踊りをおこすのだ。

 

自分のナカを表したい気持ちとは別に、

他なる存在に近づきたいという気持ちが、

踊るとき大きい。

 

きこえるものに、身をよせる。

心身をいったん他者に預けてみる。

他者のココロに溶けてゆこうとする。

音楽に溺れる。

感極まった時に、自分の中に「誰か」が入り込んでくる。

 

それは、新しい心の「たね」が宿ることに、ちかい。

我を消す試み、と言うと大げさか、、、。

 

ダンスの作品をつくるとき、

僕はたいてい自分で音や音楽をつくる。

だから、

誰かの作曲した音楽を踊るときは、

特別その人の音楽でなければならない、というときだ。

 

他者の音楽を踊るというのは、

他者のタマシイを呼吸するようなもの、だ。

 

そう思う。

 

踊ることは、タマシイの呼吸

とも言えるのではないかと、

いま、本気で思う。

 

踊る、ということを考え直す時間。

生きる、ということを考え直す時間。

ここにいる、ということを考え直す時間。

 

そんなふうに、いまこの異様な状況の、時の流れを噛み砕いている。

 

※東京ではまだ緊急事態宣言が解除されない状況で、窮地が続くなか、僕が現在確信をもって出来ていることは、結局は、淡々と稽古する、個というものを確かめ直す、ということにつきております。

表には出なくとも、止まらないこと。持続。ということなのでしょうか。

少なくとも、いまの「この時間」から何か深まってゆくものはあるはずとの思いで、ここは、時間をかけた作品づくりの期間と認識しております。

じっくり温めたものでないと、自信をもってお見せすることが出来ないので、じたばたせずに稽古を重ねるしか、能がありません。

疫病による中断と危機は、少なくとも、自分の中身が枯渇して何も出来ないのとは、まったく違う状況です。

生活は困難ですが、どんどん何かが溜まり高まり、うねってゆくのを感じます。

 

____________________________


クラス案内 Lesson and workshop 

▶これからのレッスン内容、ご参加の方法など


ダンス公演 stage info.

▶櫻井郁也によるステージ、ダンス作品の上演情報

 

 

 

 

 

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« dance photo :Sakurai Ikuya  | トップ | photo 5/18 »
最新の画像もっと見る

ダンスノート(からだ、くらし)」カテゴリの最新記事