広島忌の今日、リオ・オリンピックが始まった。開会式の場で原爆の黙祷をするというプランを演出家は構想し、広島の松井市長も文書提案していたと聞いた。実現しなかったが代わりの案が工夫されていた。しかし表面にこそ出てなくとも、どこかにその気持ちが響いてあるのだと思いながらサンバの肉体と聖火の瞬間を見つめた。
昨年の今頃は長崎にいた。70回目の8月を踊るためだった。
悲しみの火に包まれ魂たちに現在を生きる者の火がどんなふうに見えたのか、いまだ気になっている。
今年の夏は新作のリハーサルに明け暮れているが、やはり8月の青空と太陽は僕に踊りなる行為の根っこについて問いかけてくる。
楽しいときばかりでなく、悲しみから、絶望からさえも、無力のなかにあってさえも、いや、そんなときにこそ踊りは人から湧き出て血と肉を揺すり魂を蘇生させてきたということを、思う。
昨年の今頃は長崎にいた。70回目の8月を踊るためだった。
悲しみの火に包まれ魂たちに現在を生きる者の火がどんなふうに見えたのか、いまだ気になっている。
今年の夏は新作のリハーサルに明け暮れているが、やはり8月の青空と太陽は僕に踊りなる行為の根っこについて問いかけてくる。
楽しいときばかりでなく、悲しみから、絶望からさえも、無力のなかにあってさえも、いや、そんなときにこそ踊りは人から湧き出て血と肉を揺すり魂を蘇生させてきたということを、思う。