同じ製品を所有する事はできるし、同じ場所にいく事はできる。
同じ音楽を聴く事もできるし、同じ本を読む事もできるし、同じ時間を過ごす事もできる。でも、本当に同じ事を共有できているかというと、実は違っていたりする。
そういった体験を、言葉である程度補足する事はできるけれど、言葉は想いを切り取った表した写真のようなものだ。そこに表しきれない物は切り落とされてしまう。
共有を試みる事はできるけれど、同じものを共有している気分になるだけで、実際は全くかけ離れた、個々人の解釈による「相手の想い」を共有しているに過ぎない。