ごみ収集の朝に
生ごみの収集車が朝
家のまえを走り過ぎるのがみえたのである
ぼくの頭は
すぐさま駆けだし
次の集積所で追いつき
すみません と頼み
やれやれどうにか間に合った
─というものだったのである
ところがである
ぼくのこの生身 こやつは
三日分の生ごみの袋をずしりと垂らしたまま
玄関の中でかたまっているのである
ああ 収集車のエンジン音がちいさくなっていく
サンダルをつっかけ
ごみ袋を両手でかかえて走り
スミマセーン! と大声をだし
怪訝(けげん)そうに振り返られ
またスミマセーン! と言い
生ごみをわたす
その動作
ただそれだけ
目の前のチャンスに
がむしゃらにならなかったぼくなのである
自意識のゴミ袋をぶらさげたまま
妻への言い訳を考えるぼくなのである
●ご訪問ありがとうございます。
わたしの日常はあまりに平凡で、語るようなものではないが、その中にも自意識の邪魔が入りこんでしまうのです。「主夫」になるのはなかなか難しいようです。
ここから飛躍してしまうのですが、ウクライナにもロシアにも、平凡な日常があり、自意識にひっかかっていた市民がいたでしょう。「自意識」というものには課題がありますが、一人ひとりの市民の心のありようがふさがれ、ねじまげられ、「愚痴をこぼす自由」さえ奪われるのが戦争なのではないかと考えると、それだけでも「厭戦(えんせん)」の思いが噴き出してくるのです。