遠い教会②
この道も墓へと向かう上り坂
行きずりに何事も無き交差点
神無縁 心は痛み身はうずき
魂のうずく隙なし藁(わら)人形
切り干しの浜に転がる真昼かな
洗われてサンダルの昼真白なり
被(かぶ)り脱ぎ足抛(な)げ出したカカシかな
浜辺
サンダルを見つけて履いた
貝を拾い集めて食べた
もう少し生きてみようと思ったのだ
だが 浜辺にわたしの足跡は残らなかった
何事も無い一日
何者でもない影
教会への道をまだ
探そうとも思わなかった
缶
その缶には自分がぎっしり詰まっていた
自分の前 自分の横 自分の後ろ
全部ジブンだった
ジブンに取り囲まれて息が苦しい
ーそう呻(うめ)くのもジブンだった
その缶は日なたに転がっていた
その缶を開けるのもジブンなので
夜になっても其処にころがっていた
ー動きたい、立ちたい、外へ出たい
そう思う自分はまだ生まれていなかった
高い処に その缶を見つめる眼があった
●ご訪問ありがとうございます。
「聖書を読もう」と人が思うのはどのような時かと考えています。いや、私自身が聖書を読もうと思ったのはどのような時だったかと振り返っています。今から四十五年ほど前になります。
体と心と魂と、この三つがあるなら、聖書は魂に働きかけます。体と心が病んだり傷ついたり苦しんだりしても、それだけでは「救い」を求める気持ちになれない、ということでしょうか。むしろ心と体のことで「自分」が一杯になってしまい、魂の入る隙間がない、という状態かもしれません。
「今ちょっと手が離せない」
神さま、ご免!
その時が来たら神さま
声かけまする
この状態の私には、教会は遠いものでした。