祈りを、うたにこめて

祈りうた・いのちうた(病からの「プレゼント」③)

病からの「プレゼント」③

彼は死ぬほどの病気にかかりましたが、神は彼をあわれんでくださいました。(ピリピ人への手紙二章)

 何人分もある検査結果の中からわたしの分を探し出し、その医師は、「大丈夫でした」と言った。前立腺に八カ所針をさし、細胞を採って検査する、その「生検」の結果、がんは見つからなかったという。渡された病理組織検査報告書に「明らかな悪性像は認められません」とあった。
 良かったですね、と、医師はつけ加えた。いたわりがこもっていた。
 待合室にいた一、二分前のわたし。なかば期待、なかば覚悟という心持ちでいた。その「なかば期待」のほうの結果が出された。「そう、よかった!」というつぶやきが心の中で出た。神さま、感謝いたします、という祈りが、それに続いた。
 病というシャベルで人生を深掘りしよう、という気持ち。
 自分も病んで、他の病んだ人に伴走できるようになりたい、という気持ち。
  健やかでなければ人助けなどできはしない、という気持ち。
 「そう、よかった!」とつぶやいたとき、わたしの気持ちはどれに近かったか。―正直なところ、どれも当てはまっていた、という気がするのだ。いや、三つの気持ちがごちゃ混ぜになっていた、というのが合っているのだろう。
 いや、もうひとつあった。それは以前、もし前立腺がんと診断されたら治療を受けるだろうか、という自問をしたことである。高齢者であるわたしは、もしもいま独りだけで生きているなら、手術なり放射線なりの治療は受けまいと思うのではないか、という考えに傾いていた。生きるも死ぬも唯独りのこと、というのであるなら。
 人生の意味、他者との共生、いのちへのつつましさなどなど、病からの「プレゼント」は、実に魂にズッシリと来る重たいものだ。すぐに答えが出せない。しずまって深く考えていかないと、と思う。
 とはいっても、全部のひとがそうであるとは限るまい。軽やかに生きてきて、「たまたま病んで」、なお軽やかな病人として生きていくというひとはいるだろう。風邪や擦り傷程度のことと思って。あるいは、「たまたま病んで」、これまで幸せを味わっていた人生がとんだ災難に見舞われたと思う、そう思いながら、己の弱さもろさ、いのちのはかなさ尊さと向き合うことは延期する、というひともいるだろう。こんなことは何度も起きることではない、一度だけでたくさんと思って。さらには、「たまたま病んで」、これはつらいことだと正面から受け止める、だが、治すほうにひたむきになり、病からの「プレゼント」の箱はついに開けずじまい、というひともいるかもしれない。とにかく治す、病気になど負けていられない、人生を振り返るのはもっと先のことだと思って。
 病む姿勢は生きる姿勢と同じこと。だから、さまざまな姿勢があるのは当然のことなのだと思う。
 わたしは、その場で祈った。神さまなしの人生は考えられず、神さま抜きに病も受け止められないから。今の体調不良も、どのような意味があるのか、神さまにたずねている。
  医師の言葉をきいたとき、「神さま、感謝いたします」という祈りをしたと、初めに書いた。その祈りにこめた思いは、すべてを知っておられる方に対する、心からの畏れとおののきの念、と同時に、この弱い者はかない者をあわれんでくださったこと、それへの深い感謝の思いであった。




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