祈りを、うたにこめて

祈りうた・いのちうた(病からの「プレゼント」②)

病からの「プレゼント」②


彼は死ぬほどの病気にかかりましたが、神は彼をあわれんでくださいました。(ピリピ人への手紙二章)


 定期的な健診で、ある病気が見つかる。大きな病院を紹介される。精密検査を受ける。診断がくだされる。―いきなりの展開に、穏やかな日々の暮らしが、もみくちゃにされるよう。心配、不安、その他もろもろの思い煩いが、ひと月以上心を引っ掻き回す。「安心の結果でしたよ」という言葉が医師から発せられるのを期待(あるいは願い、あるいは切望)しながら待つ、その時間の長さ。「ちょっと手ごわい病気です」「ほかの精密な検査もしましょう」「もっと大きな病院を紹介します」などのことばは聞きたくない、と恐れる。はっきり病名を告げる医師が増えてきているので、「がんです」という言葉への怯えがある。
 病が指摘されてみると、「健康であることはありがたいことなのだ」、「何気ない日常は尊いものなのだ」と気づかされる。「生老病死」のうち「生まれて、生きて、老いて、病んで」までたどって来た。その病は、人生というものの上っ面を剥がす。最後の、「死」というステップを意識せずにいられなくする。
 元気でたくましい老人は周りにもいる。七十代八十代で働いているひとたちは少なくない。が、わたし自身はここにきて「老い」を感じるようになった。この数カ月で生のエネルギーを急に失った、というのが実感だ。一度落ちた体重がもどらない。「疲れた」という感覚が全身からしみ出てくる。鏡に映る顔はやつれていて、頬がこけ、目がくぼんでいる。お若いですね、年齢をきいてびっくりしましたと、お世辞をいわれることに内心喜んでいたのは、つい半年ほど前までのことである。
 このような状態になって、これまで先延ばしにしてきた深い課題が、冷たい空気に触れてヒリヒリしてくる。―目をそらさずに己自身のもろさ弱さと向き合え、「自分教」にすがってきた自我なるものを棄てろ、真実の生き方、魂のほんとうに自由な世界を求めよ、という声が聞こえてくる。耳が遠くなっても、その「声」だけは届くのだ。
  身を正し、こうべを垂れて祈ろう、というこころが湧いてくる。




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