子どものおれ・老人のおれ
嗤(わら)われて
へろへろわらう
いじけた子
ちょうだいと
いえずに盗む
汚(きたな)い子
のぞき見て
ニヤニヤわらう
みだらな子
後ろ指
さされた悪(わる)を
ごまかす子
うそ吐かぬ
一日だったと
うそ吐く子
叩かれて
くしゃくしゃ笑う
のろまな子
ひとを責め
おのれを恥じぬ
不遜(ふそん)の子
いやなこと
明日にのばす
怠けの子
友だちに
弱さ見せない
不信の子
ひとの目を
気になどせぬと
見栄(みえ)はる子
幸不幸
びんびん響く
ねたみの子
やさしさを
演じつづける
偽善の子
すぐキレて
家族を泣かす
浮薄(ふはく)の子
撫(な)でられて
いやいやをする
曲がった子
―電灯に
手が届かない
神の闇
ダメだから
救ってやると
呼ばれた子
しあわせの歌
神の呼びかけ
神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。
「あなたは、どこにいるのか。」(旧約聖書「創世記」3章9節)
1
しんの自分を見つめるのが怖(こわ)くて逃げ回っていたのだった
あしたこそ明日こそと思いつつ 目をそむけて一年二年
わずらわしいし痛いもの それが「真実」だとわかっているのだった
せっかちなのにグズグズだから、しびれ切らした声が天から聞こえてきそう
2
しごとで忙しいのは好都合(こうつごう)だねと そのひとは言う
あなたの乾いた心を仕事が満たす そう錯覚できるねとそのひとは言う
わたしは卑怯(ひきょう)に見えるのか、逃亡者なのか そんな自問を君はときた
ましてみるけれど
せい一杯と思う日々に君の真の姿は埋もれているよ そのひとは静かに言う
3
しんじつの前で長い年月 私はためらっていたのだった
あとに戻れないほど追い詰められていたのに
わたしには失うものがないのに 私自身を喪うこと、それが怖(こわ)かったのだ
った
せっかくのチャンスなのに 神のせっかくの呼びかけなのに
4
しんぼう強い方が ずうっと私を待っておられたのだった
ある朝のこと 私に告げようとついに前に立たれたのだった
わたしは顔を上げ、その方の言葉にうなずいた 素直に、本とうに素直にうな
ずいたのだった
せいしょの一節 私はようやく「真実」に向かって心を開いたのだった
●ご訪問ありがとうございます。
6月8日に「証し」(イエス・キリストを信じ、受け入れたときの体験話)を投稿しました。その後、なにとなくひっかかるものがありました。
ふり返って、あの証しには私自身のせっぱ詰まったことは書いたけれど、私がどれほど醜い・ずるい者であるかは書いてなかったと気づきました。
ずるさ・傲慢さ・ねたみ深さ・嘘になれっこのエゴの自分、それらをぼやかしている気がしたのです。それだと「クリスチャンは良いひと」という誤ったレッテルを自分からはってしまうことになります(クリスチャンは「ゆるされたツミビト」です、「祝福された善人」ではないのです)。
わたしの心の大きな課題は「嘘」と「ねたみ」と「おごり」です。気づいていない他の課題もあるかもしれません。この課題と向き合う気持ちはだんだん強くなってきています。いつまでも逃げてばかりいられないという気持ちです。