祈りを、うたにこめて

祈りうた(道を求めて 「神は愛なり」と知った時の衝撃)

道を求めて 

「神は愛なり」

 

 

 「神は愛なり」という言葉が、とつぜん飛び込んできたのだった。新約聖書の最後のほうにある「ヨハネの手紙第一・四章八節」だった。
 わたしは、あまりに驚き、このときキリスト教の「神」の性質を初めて知ったのだと思った。


 わたしの父母は、新興宗教の信者であった。家の三畳ほどの一室が、「仏間」になっていた。朝と夜、その部屋に入り、仏壇の前でお経を唱えていた。大声なので、外にも漏れていただろう。
 わたしは信者ではなかった。が、室内に漂う線香の香りは嫌いではなかった。中三と高三の一時期、仏壇の前でお経を唱えたこともある。そのときのわたしは、「ご利益(りやく)宗教」そのものの態度を取っていたことになる(その教団は、仏壇の大きさが信仰の強さの証であると言っていた。また、拝めば、病気は治るともいい、世で成功するとも言っていた。魂の救いでなく、現世での利益が説かれていた、とわたしは受け止めた。「現世利益(げんぜりやく)」の考え方である)。
 母と父の口からはよく「ブツバチ」という言葉が出た。「仏の罰」、すなわちブツバチである。信者として励まないとバチが当たるぞ、教団の方針に従わないとバチが当たるぞ、勝手気ままな生活を続けているとバチが当たるぞ、というような言いかたであった。


 それを聞くわたしは、「仏とは怖い存在だ」「人間を守るというより裁く存在だ」と思うようになった。気の小さいわたしには、バチは恐ろしいことである。バチには苦しみばかりか、死のにおいさえしたので、なおさら恐怖心をあおられた。 
  宗教というものは、「死」の恐怖をちらつかせながら人間に迫ってくるものだと思い込んだ。光でなく闇が支配する世界、それが宗教の世界であり、信仰の世界であるのだと。


 そのわたしの思いを、キリスト教の神はくつがえされたのである。
 一八〇度の回転、未知の扉がとつぜん開いた、というほどの衝撃であった。
 「神は愛だ」というのである。罰を下すのでなく、愛するというのである。
 その言葉を聖書に見いだしたときのことを、四十年余り経った今でも覚えている。あの部屋で、あんな姿勢で読んでいたのだ、ということも覚えている。それほどのパンチを喰らったのだ。
 神は愛。
 神は愛。
 イエス・キリストは、愛である神のその体現者。人間の罪を背負って、罪のないひとが、人間の身代わりに処刑された。


 わたしは当時、世に不満ばかりいだいていた。身の不遇を嘆いていた。自分はなんて不幸なのだとブツブツ言いながら、孤独な日々を過ごしていた。
 その一年ほど前に大きな事故にあい、全身を打撲していた。腰痛と頭痛で目覚め、痛みながら昼を過ごし、痛んだまま夜の床に入るという状態が毎日つづいていた。
 ウツウツとした精神状態だったと思う。
 そんな状態で考えていたのは、「これがバチというものなのではないか」ということだった。母を泣かせ、わがままを通し、自分のことは自分で決めると奢(おご)っていた。学生運動で挫折し、役に立たない自分だと自嘲(じちょう)もしていた。
 望みというようなものはなく、ニヒルぶった人生観をいだいていた。自分があてにできないのだから、ひとも信じることができない。バチ当たりの奴、そんな思いであった。

 そこへガツンと一撃が来たのである。
 神は愛。
 神は愛。
 傷ついた者、弱さを知った者、うめいている者、自分をどうしようもない奴だと思い込んでいる者、悪さを止められない者、―要するに自分はひとを愛さない、ひとからも愛されない、「愛」などからはほど遠い者だと、そう決めつけ、殻に閉じこもっている者。そんな者のために、自分のいのちを棄てて、死刑に処せられたイエス・キリスト。その愛。

 それから洗礼まで、実は何年も経ったのだった。
 心の堅さがほぐれるまで、さらに長い時間を要した私だったのである。不満と不安を抱えながら。
 けれど、今になって思うと、この時の神との出会いこそが、その後のわたしのかたくなな心をちょっとずつちょっとずつ溶かしてくれたのではないか。そう思うのである。

 

 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。*1

 この光は実に世界のはじめからあったのだ。闇が先でなく、光が、だれに対しても与えられていたのである。

 この方(イエス・キリスト)にいのちがあった。
 このいのちは人の光であった。*2

 そしてその光は、わたしにさえも届いていたというのだ。とっくのとうに。わたしが自分で陰をつくり、光をさえぎっていた、そして、この世には光などない、暗さばかりだと決めつけていた、というのである。
 「神は愛」―その日のわたしに刺さった、この言葉。信仰を与えられてからも、いや、与えられた後からこそ、この言葉の深い意味、大きさ、強さ、広さ、それらを全身で感じ続けているのである。

 神は決して見捨てない、裏切らない。―そう信じているのである。

 *1 旧約聖書「創世記」一章三節   
 *2 新約聖書「ヨハネの福音書」一章四節。
  『聖書』にはイエス・キリストの誕生前の神との契約を書いた「旧約聖書」、誕生後の神と
   の契約を書いた「新約聖書」とがある。

 

 

 

●ご訪問ありがとうございます。

ひとりの貧しい人間が救われるまでに、神さまはどれほどの手を尽くされるかと、改めて思います。どれだけの人がのってもこぼれることのない掌の大きさ。そこにのるまでの間に。
「神は愛」という意味の深さ、戦争・紛争が止まない今だからこそ、この意味をかみしめねばと思うのです。

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