ほいほいとぼとぼ日記・爺爺刻々

40数年前の荏原町駅

ちょいと前より写真整理をしておりますが、コメントを頂いているりばてぃさんは1966年生まれということで、若き頃に小学生くらいのときにご覧になられたかも知れない大井町線(この当時はたぶん田園都市線)荏原町駅での3450系(?)のすれ違い風景をお贈りいたします。
1930年代生まれで、旧名はデハ510系と言われていて、東急に吸収される前の目黒蒲田電鉄や東京横浜電鉄で走っていたそうで、会長の仰る床が木でワックスがけの車両はこの辺であったと思われるのであります。この塗装は、50年代から60年代半ばまでなので、馬込の写真を撮っていた時期と同じころで、この塗装の最後の方の時期だと思われるのであります。この踏切は、荏原町の大井町側でありまして、いまはなきというか、どこにあったのかですが、なぜか覚えているような「荏原ドレメ女学院」の看板が印象的であります。また、手前には質屋のマルカの看板もあるのであります。この写真で待っている人が踏切内に入っているように見えるのでありますが、遮断機はあるようです。

さて、荏原町駅の旗の台側の踏切ですが、こちらはモノクロ写真でそれに相応しいセミステンレスのエコノミカルカー6000系であります。カラーではない方がディテールが出るようであります。

6000系は、やはり鋼鉄車両から一線を画した5200系のあとに1960年にデビューして、東横線から田園都市線で運用されたのであります。行き先板をみると「大井町-溝ノ口」と書いてありますが、「溝ノ口」が駅名変更で現在の「溝の口」になったのが1966年なのでそれ以前の写真ということが分かるのであります。この写真では、左端になんとミゼットが写り込んでおります。こうやって、ミゼットの姿を見ると700系新幹線の前頭部に見えるのはアタクシだけでありましょうか?デザインというのは結構面白いものであります。
荏原町の遮断機もない懐かしい風景でありました。

コメント一覧

delpin
若輩者さま。おっしゃるとおり、かつては荏原町駅前にロータリーがありまして、ボンネットバスが入ってきてました。小さなロータリーでグルっと回れず、いったんバックして切り返して馬込方面に折り返したように思います。あの頃はバスに車掌さんがいた時代で、バックする時に車掌さんが誘導していたような、、ちょっと記憶は曖昧です。
若輩者(53)
かつて北馬込2丁目に住んでおりました。買い物は荏原町商店街で、既に大森駅からのバスは商店街の手前で三本松方面に戻ってしまうようになっていたのですが、昭和40年代中頃までは荏原町駅前のロータリーで発着していたと聞いております。
どのようにバスが入っていたかご記憶ではありませんでしょうか?
ご教示いただければ幸いです。
ほいほい
すごい!
なんで写真が見られないのでしょう。残念ですが、PCなんてそんなもんです
すぐに見られますよ。しかし、よく知ってますねぇ。鉄の血が大分入ってますね。田園都市線開通当時に長津田まで写真とりに行ったのであります。あの当時は鷺沼から先は2両編成で走っていたのであります。塗装はもちろん黄色にブルーでありましたよ。
りばてぃ
3450
http://liberty1966.spaces.live.com/
こちらの不具合か、せっかくの3450の写真が見れません(涙)。ですが思い出のタップリ詰まった電車です。特に3452号は非貫通に横一文字のアンチクライマーが凛々しい顔立ちで大好きでした。田園都市線で走る末期には電動車5両連結でまさに爆走していたのを思い出します。
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