お約束の入り口の案内柱も地鎮山と比べると立派です。
ついでに、大湯は国の特別史跡でありますが、忍路は国の指定史跡という格の差も多少あります。しかし、特別と指定の差なんて見た目には素人には分からないのほどの差だと小樽びいきのアタクシ的には思っておるのでありますが、結構な差はあるようでありますね。列車の旅の「指定席」っていうのと「特別席(こんなのありませんが)」はイメージ的にも相当の差がありますことは認めざるを得ませんであります。 大湯も今を去ること30数年前に行ったことがあるのですが、現在の姿とは到底かけ離れた姿で、林の中に大きな石がドンと置かれていたような気がするのでありますが、現在の写真を見ると広っぱでこんな広かったかなと思うのでありますが、まったく人の記憶なんぞはあてにならないのであります。
さて、本題でありますが、忍路という名前自体がちょいと艶めかしい感じがして、秘密のイメージが環状列石に重なるのでありますが、「ヲショロはウショロにして懐の事なり。此処(ここ)懐の如(ごと)く湾に成しゆえ名付く。」と西蝦夷日誌という江戸時代の本に書かれているそうで、江戸時代から鰊漁のメッカとして天然の良港を利用して開発された漁村がメインの土地で、忍路という名前と環状列石はまったく関係ないのでありました。この点は、ちょっと残念なのであります。
ちょうど、人の右手がモノをつかむ形の人差し指と親指の間の空間が忍路湾で、忍路環状列石は手首当たりになるのでありましょうか、完全な山に入ったところでありますが、この列石自体の発見は江戸の文久といういいますから、いまから約150年前であります。
さて、説明板によると、この列石が造られた時期は今から約3,500年前の縄文時代の後期で、緩やかな斜面を平らに造成し、南北33m、東西22mの楕円形に石を配置しているというそうであります。ただ気になるのは、「近代になり、一部手を加えられ、造られた往事とは異なった所がありますが」という点で、これは一体どういうことなのでありましょうか。異なってはいけないのではないかと思いますが、異なっているそうなのであります。どうも、早くから発見されたせいで、「熊さん、引っ越しおめでとう、あそこに良い石がごっそりあるよ。家建てるなら土台石にいいよ」ということで持って行ったらしく(?)、在りし日の姿ではなくなっていたんでありますが、大正11年に皇太子(後の昭和天皇)が行啓されるっていうので、「ま、昔はこんな感じなんじゃないの。そうそう、こんな感じでしょ、熊さん、あんたの持って行った石も返しなさいよ」というノリで慌てて修復されたらしいのでありますが、正しい姿は誰も分かっていないため、現場に立つと、これはどう鑑賞して良いのか迷うのであります。つまり、「あの四角い石と東側の丸い石の関係を見ると夏至に関係するね。うんこれは、間違いない!」なんてことは一切言えないのであります。
解説板の辺りからの全景。おおよそ左側が東、手前が北の方角。
なんせ、あとから適当に石を持ってきて置いたんですから。このことは、大変に残念ではありますが、こういう小さな石だけの遺跡、史跡の弱みで、発見された以降に、誰かがちょっと悪戯をしようとすれば、石を移動して東西南北にぴたりと方角を合わせることも可能でありまして、現在の石の配置もほぼそれに合わせてあるような感じですので、石の配置を見て何かを推理するとかの楽しみが無いのが残念なのであります。これが、特別史跡になれなかった原因でありましょうか。
また、いままで紹介した西崎山、地鎮山は両方とも墓地と断定されているのでありますが、ここは、墓地と断定する証拠である「燐が検出された」「土葬のあと」などが発見されておりません。
当たり前ですが、いわゆる「死者を弔う儀式を行った」場所という通説で語られております点も、石の配置が分からないので研究が進まないのであります。しかし、西崎山や地鎮山の環状列石との最大の違いは、山の頂上ではなく山の斜面をわざわざ削って作られている点で、これはいったいどうゆうことなのかが一番の疑問であります。横には小川が流れ全体には平坦な土地柄で、忍路環状列石の北側で、大量の木製品を始め漆工芸品、繊維製品などが出土している集落跡が隣接しており、生活の場が極めて近いところにあったと思われるのであります。さらに「ここから発掘された巨大木柱は、環状列石とも関連する祭祀的な道具だったのではないかと推定されている。」という話もあり、さらに、地鎮山の尾根沿いには数個の環状列石の墓が確認されているようにお墓は山の上でいいとなれば、生活の場に一番近いここは墓ではなくシャーマンの祭祀場であったような気がしてならないのであります。温暖な気候の最後の時期である3500年前は海岸線ももう少し山側となると忍路の環状列石は川沿いの低い土地にあるため海岸側へのアプローチも容易であったはずで、本格的な集落としては十分に海、山の幸を取り込みやすい住みやすい土地であったように思えるのであります。そこに、太陽を司るシャーマンが日時計としての環状列石を作り、祭祀をとり行ったと想像するのは楽しいではありませんか。
ま、素人考えの根拠レスであはありますが、古代を想像するとどうもそのように思いたいのでありますね。では、次回は、洞窟系を8月に取材して参りますので、ご期待ください。
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