ほいほいとぼとぼ日記・爺爺刻々

小樽近郊のストーンサークル

iPhoneやパソコンの中には無駄な写真や映像がいっぱいですが、なんで残しているのでしょうかね。爺の経験からすると:

1)ストレージ容量が余っているので、別に困らないから

2)どうせ見ないのは分かっているが、消すにはなぜか惜しい気がする

3)単に整理する時間がないし面倒

4)そもそも消し方が分からない

5)なんで撮ったのか忘れたが、撮ったときは、いつか誰かの役に立つ歴史的な情報になると思ったかもしれない

なんて、思っているあなたは私の同類の方々です。一緒に無駄を楽しみましょう。

その無駄な映像の中に、4年前に撮影した小樽の余市寄りにある忍路という地域のストーンサークル(環状列石)をドローンで撮ったものが出てきたので、ちょいと編集して御覧くださいませ。なお、以下は09年7月に書いた忍路環状列石の文章を加筆修正したものでありますので、お暇ならお読みください。

忍路環状列石

小樽環状線を天狗山を超えて余市方面に向かうと、いつの間にか道路名はフルーツ街道という洒落た名前に変わります。走っていて、ここからフルーツがいっぱいだから、ここからフルーツ街道だ。と意識して運転している人は皆無と思われますが、話題はそれではない。主役は巨石でもない中堅どころの石たちが並んでいる忍路環状列石なのです。国内最大と言われる秋田県の大湯環状列石の直径46mには多少負けますが、楕円形の南北方向が33mと小樽周辺では80くらいあると言われる環状列石のなかでも最大であります。こうゆうものでは、イギリスのストーンヘンジが有名ですが、あれは「ヘンジ」でこっちは「サークル」という違い。ヘンジは変なジジイではなく巨石の上に横に巨石を載せている形をいい、単に石を回るくおいてあるだけのものは「サークル」という分類になるようで。

お約束の入り口の案内柱も地鎮山と比べると立派です。しかし、冬にはこのように雪に埋もれて見られません。


ついでに、大湯は国の特別史跡でありますが、忍路は国の指定史跡という格の差も多少あります。しかし、特別と指定の差なんて見た目には素人には分からないのほどの差だと小樽びいきのアタクシ的には思っておるのでありますが、結構な差はあるようでありますね。列車の旅の「指定席」っていうのと「特別席(こんなのありませんが)」はイメージ的にも相当の差がありますことは認めざるを得ませんであります。 大湯も今を去ること30数年前に行ったことがあるのですが、現在の姿とは到底かけ離れた姿で、林の中に大きな石がドンと置かれていたような気がするのでありますが、現在の写真を見ると広っぱでこんな広かったかなと思うのでありますが、まったく人の記憶なんぞはあてにならないのであります。
さて、本題でありますが、忍路という名前自体がちょいと艶めかしい感じがして、秘密のイメージが環状列石に重なるのでありますが、「ヲショロはウショロにして懐の事なり。此処(ここ)懐の如(ごと)く湾に成しゆえ名付く。」と西蝦夷日誌という江戸時代の本に書かれているそうで、江戸時代から鰊漁のメッカとして天然の良港を利用して開発された漁村がメインの土地で、忍路という名前と環状列石はまったく関係ないのでありました。この点は、ちょっと残念なのであります。
ちょうど、人の右手がモノをつかむ形の人差し指と親指の間の空間が忍路湾で、忍路環状列石は手首当たりになるのでありましょうか、完全な山に入ったところでありますが、この列石自体の発見は江戸の文久といういいますから、いまから約150年前であります。



さて、説明板によると、この列石が造られた時期は今から約3,500年前の縄文時代の後期で、緩やかな斜面を平らに造成し、南北33m、東西22mの楕円形に石を配置しているというそうであります。ただ気になるのは、「近代になり、一部手を加えられ、造られた往事とは異なった所がありますが」という点で、これは一体どういうことなのでありましょうか。異なってはいけないのではないかと思いますが、異なっているそうなのであります。どうも、早くから発見されたせいで、「熊さん、引っ越しおめでとう、あそこに良い石がごっそりあるよ。家建てるなら土台石にいいよ」ということで持って行ったらしく(?)、在りし日の姿ではなくなっていたんでありますが、大正11年に皇太子(後の昭和天皇)が行啓されるっていうので、「ま、昔はこんな感じなんじゃないの。そうそう、こんな感じでしょ、熊さん、あんたの持って行った石も返しなさいよ」というノリで慌てて修復されたらしいのでありますが、正しい姿は誰も分かっていないため、現場に立つと、これはどう鑑賞して良いのか迷うのであります。つまり、「あの四角い石と東側の丸い石の関係を見ると夏至に関係するね。うんこれは、間違いない!」なんてことは一切言えないのであります。

解説板の辺りからの全景。おおよそ左側が東、手前が北の方角。

なんせ、あとから適当に石を持ってきて置いたんですから。このことは、大変に残念ではありますが、こういう小さな石だけの遺跡、史跡の弱みで、発見された以降に、誰かがちょっと悪戯をしようとすれば、石を移動して東西南北にぴたりと方角を合わせることも可能でありまして、現在の石の配置もほぼそれに合わせてあるような感じですので、石の配置を見て何かを推理するとかの楽しみが無いのが残念なのであります。これが、特別史跡になれなかった原因でありましょうか。

では、誰が、なんのために作ったのかという疑問でありますが、前述の通り定説がございません。想像するに作られたときは縄文海進の終焉期で、海岸線がまだこの近くまできており、穏やかな気候と平坦な土地柄で、住みやすかったのではないと思うのでありますね。そのため、忍路環状列石の北側で、大量の木製品を始め漆工芸品、繊維製品などが出土している集落跡が隣接しており、生活の場が極めて近いところにあったと思われるのであります。さらに「ここから発掘された巨大木柱は、環状列石とも関連する祭祀的な道具だったのではないかと推定されている。」という話もあり、さらに、ちかくの地鎮山の尾根沿いには数個の環状列石の墓が確認されている。お墓は山の上でいいとなれば、生活の場に一番近いここは墓ではなくシャーマンの祭祀場であったような気がしてならないのであります。本格的な集落としては十分に海、山の幸を取り込みやすい住みやすい土地であったように思えるのであります。そこに、太陽を司るシャーマンが日時計としての環状列石を作り、祭祀をとり行ったと想像するのは楽しいではありませんか。
ま、素人考えの根拠レスであはありますが、古代を想像するとどうもそのように思いたいのでありますね。

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