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ほいほいとぼとぼ日記・爺爺刻々

荏原七福神巡りは御神酒巡りでもあったのだ(第一話)

 3日は、毎年恒例の荏原七福神巡りを実施。立会川沿い、駅で言うと西小山付近から旗の台を通り大井町までの6550m、歩数でいうと10850歩であるそうな(荏原第五地域センター資料による)。このB4版の資料は昔で言えばガリ版刷りが今はコピーであるが、なかなか親切な解説なのである。ブログを書くときにとても役に立つありがたいものなのである。最初は、小山八幡宮。西小山の駅を立会川沿いに5分ほど下って右側の小高い丘の上にある、まさに小山なのである。下の道路からは標高20m以上はあると思われる。階段の途中の駐車場にしようとしている広場には大晦日に降った雪がまだ一面残っており、やんごとなき親子の方々が雪遊びに興じておられたのでございまする、なんちゃって。
 さて、この神社は、口伝によると鎌倉幕府の頃の長元3年(1030年)源頼信くんが千葉の方の平忠常を追い出すために討伐にきた途中にこの辺によったんですね。そこでなぜか霊威を感じたので此の地に誉田別命を奉斉し、小山村の氏神として、崇敬したものといわれるのだ。我が地元の旗が岡八幡宮も頼信ちゃんが同じ時期に荏原町当たりでも霊威を感じてくれて作ってくれたので、小山神社とは兄弟なのね。どっちがお兄ちゃんなのかは分かりませんがね。旗の台=旗が岡の名前は、頼信君の旗がいっぱい立ち並んでいたことが由来といわれる。
 実は、ここと摩耶寺はセットであったのだ。これは神仏混合で寺が神社を支配する形が江戸時代は一般的であったね。だから妙見八幡、池ノ谷八幡とも称し、誉田別命並びに妙見菩薩を祀ったりもしてたそうな。明治5年の神仏分離勅令により妙見菩薩を摩耶寺にお戻しなって、神社として独立したのだ。
 ここは七福神の大黒天をお祀りしている神社で、もともと大黒天堂というお堂を持つ由緒ある神社である。大黒天は、大国主命とごっちゃにされているが、元はインドの破壊の神であるシバ神が仏教の神となって「大黒天」と呼ばれるようになったのですね。日本に大黒天を伝えたのは、伝教大師最澄であり、中国留学のおり寺院の厨房に大黒天が祀られているのを見てわが国にも同様に台所の神様として祀られてきたという説もあり、僧侶の奥様を「だいこく」と呼んでいるのもこうした意味からだそうである。我々、七福神探検隊はまずここで御神酒をいただき、七福神巡りの色紙を購入。一枚廉価版が1500円。金箔風の色紙は、2000円。ここは迷わず廉価版をいただく。なぜか、ここには風水達磨なる新商品が今年から登場。色と風水の組み合わせ達磨らしい。ここの神社の由来はまた、別の時にということで大黒様から次は、寿老人へと小山を下る。この間約100mもない。交番を左に曲がると老人がお待ちの摩耶寺にご到着なのだ。とりあえず、疲れたので今日はここまで。続きは明日のココロなのだ。
 

コメント一覧

ほいほい
通りすがりさんへ
コメントありがとうございます。ちょっと暖かくなってきたら立会川の源流から海に注ぐところまでのレポートをしますのでまた読んでください。
通りすがり
近所の情報が・・・
こんにちは。摩耶寺など自分の近所の話題にこんなところで出会うとは。普段あまり関心をもたないでいたので、由緒あるお寺だなんて知りませんでした。またいろいろ教えてくださいね。
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