アートは私たちに、自分たちがそれらをどう考え、どう見るか、
つまり、自分がどういう人生を生きたいのか、
どういう人間として生きていきたいのか、
自分が生きている社会や地域、人とどうかかわりたいのか、
ということを問うてくるものである。
(『アートの役割』)
「ゴッフォ的流動感が良い」と感じる自分に気付いた人は、
日常生活の中でそれらしいものの存在を無意識にでも探します。
つまり、「ゴッフォ的流動感が良い」と感じる自分に気付いた人の目で
世の中を見るようになる、ということです。
その視線は、「ひまわり」鑑賞前には存在しなかったものです。
(森の中の畑は森か?『芸術の役割』)
芸術は決して、余暇のためのものでも、心を豊かにするものでもありません。
そんな軽率なものではない。社会に、生活に、人生に大きな影響を及ぼす、重厚なものなのです。
芸術にはしっかり役割があります。
なぜ、何千年も様々な芸術を人間は創り続けてきたのか。そしてそれらを愛でてきたのか。
そこには、食べる、寝るなど、人間に必須な活動と同等なものとして受け止められてきたからではないでしょうか。
余暇のためのものであるなら、とっくの昔に消えてしまっていても何ら不思議はない。僕はそんな風に思います。
(森の中の畑は森か?『芸術の役割』)
◆原始・古代の「芸術」は錯覚でしかない
かくして、万物の源泉、創造主としての資格を持っていた自然や神の座に、個人が収まることになりました。
しかし、この個人のオリジナリティや創造性は、人工的に作られた、ごく新しい概念です。
例えば、「原始・古代にも芸術があった」という見方はたかだか
この200年間の間に生まれた観念を過去の歴史に当てはめた錯覚にすぎません。
なぜなら、原始の人類の生み出した傑作群には、
オリジナリティや個性、ましてや所有権の絶対視はなく、
ただ万物の創造主、源泉としての自然への畏敬の念があるのみであって、
決して近代の「芸術」概念とは相容れないからです。
(るいネット『「芸術」は私権の共認が生んだ観念の一つ』)
つまり、自分がどういう人生を生きたいのか、
どういう人間として生きていきたいのか、
自分が生きている社会や地域、人とどうかかわりたいのか、
ということを問うてくるものである。
(『アートの役割』)
「ゴッフォ的流動感が良い」と感じる自分に気付いた人は、
日常生活の中でそれらしいものの存在を無意識にでも探します。
つまり、「ゴッフォ的流動感が良い」と感じる自分に気付いた人の目で
世の中を見るようになる、ということです。
その視線は、「ひまわり」鑑賞前には存在しなかったものです。
(森の中の畑は森か?『芸術の役割』)
芸術は決して、余暇のためのものでも、心を豊かにするものでもありません。
そんな軽率なものではない。社会に、生活に、人生に大きな影響を及ぼす、重厚なものなのです。
芸術にはしっかり役割があります。
なぜ、何千年も様々な芸術を人間は創り続けてきたのか。そしてそれらを愛でてきたのか。
そこには、食べる、寝るなど、人間に必須な活動と同等なものとして受け止められてきたからではないでしょうか。
余暇のためのものであるなら、とっくの昔に消えてしまっていても何ら不思議はない。僕はそんな風に思います。
(森の中の畑は森か?『芸術の役割』)
◆原始・古代の「芸術」は錯覚でしかない
かくして、万物の源泉、創造主としての資格を持っていた自然や神の座に、個人が収まることになりました。
しかし、この個人のオリジナリティや創造性は、人工的に作られた、ごく新しい概念です。
例えば、「原始・古代にも芸術があった」という見方はたかだか
この200年間の間に生まれた観念を過去の歴史に当てはめた錯覚にすぎません。
なぜなら、原始の人類の生み出した傑作群には、
オリジナリティや個性、ましてや所有権の絶対視はなく、
ただ万物の創造主、源泉としての自然への畏敬の念があるのみであって、
決して近代の「芸術」概念とは相容れないからです。
(るいネット『「芸術」は私権の共認が生んだ観念の一つ』)