すでに2週間ほど経っていますが、今月(3月)の6日に滋賀県へ歴史探訪の日帰り旅をしてきました。
今回は一人旅ではなくて、5人グループでの「歴史探訪」になりました。滋賀県の彦根市と長浜市へ。彦根では彦根城を見学し、長浜市では「盆梅展」を見学後、長浜市内散策して、国友鉄砲ミュージアムへ(バス利用で)行ってきました。
彦根城見学は(私は)2度目だったのですが、庭園見学は初めてでした。今回は庭園の美しさに感動しました。庭園の池の背後に彦根城を見るのがよかったですね。5人グループの写真も撮りました。一人歩き旅では、ほとんど(自分が入っている)写真を撮らないのですが・・・。(街並みなどを撮ることが多いです。)
JR長浜駅近くの『慶雲館』で「盆梅展」が実施されていました。いつもテレビニュースで「盆梅展」を見ていたのですが、実際の盆梅を観賞できたのは初めてでした。背丈以上の天井に届くぐらいの大きな盆梅も展示されていたので、迫力+魅力がありましたね。やはり、テレビ画面では感じられない「力強い美しさ」が目に入ってきました。やはり、「本物は実際に見るべきですね!」。たぶん、「長浜・盆梅展」は日本一でしょうね。
盆梅展見学後、グループ5人は2班に分かれて、長浜市内散策へ。私は「黒壁スクエア」方面の街並み散策へ。「黒壁スクエア」散策は初めてではなかったのですが、何十年ぶりかだったので、はじめて歩く道もあり、楽しく散策できました。黒壁スクエア一帯の中心的建物【黒壁ガラス館】は、国登録有形文化財で明治33年に建てられた旧第百三十国立銀行長浜支店。その建物の壁が黒っぽく、どっしりとしている。現在は、銀行ではなく、「ガラス館」として活用され、利用者も多い。ガラス館周辺には、「黒壁○○」という建物も多い。そして、黒壁ガラス館は、北国街道に面しているので、江戸時代から賑わいのある場所だったと予想できました。しかし、現在、地方都市はどこもシャッターを下ろしている店が増えつつあり、長浜市も例外ではないように感じた次第です。
(ここから続きです)
2グループが合流後、バス利用(約15分)で長浜市国友町へ出かけました。国友町には、『国友鉄砲ミュージアム』があり、今回の主たる見学地でした。若かりし頃、一度車で訪れたことはあったのですが、すっかり忘れていました。グループでの探訪で、時間もたっぷりあったので、ミュージアム館内や周辺地域を徒歩で見学することができました。
『国友鉄砲ミュージアム』は若かりし頃になかったように思いました。初めての館内見学で「火縄銃」についての知識を深めることができました。国友の火縄銃をはじめ約50挺が展示されていました。火縄銃体験コーナーもあり、実物を担いだり、持つことができ、具体的に認識できました。
種子島に1543年に伝来した火縄銃2挺が、1年後の1544年には国産化されていったのですから、日本の模造力は大したものですね。火縄銃を模造する段階で、一番苦労したのは「銃身の尾銓」に取り付けるネジ(螺子・捻子)の模造でした。銃身部分の雌ネジをいかにしてつくるか? 鉄筒の雌ネジ部分をいかに造るか? 雌ネジに捻じりながら差し込む雄ネジの模造は簡単にできたようですが、雌ネジの模造には大変苦労したようです。 火縄銃が伝来するまでは、(日本では)ネジ(=螺子・捻子)というものを作ったことがなかったのですから・・・。火縄銃生産地=(種子島→根来・堺・国友など)では、それぞれ苦労したようです。ネジの開発は大きく日本の歴史を変えていったと言えるでしょう。だから、ネジの歴史を調べると、面白いはずですよ。
種子島における火縄銃造りでは、やはり「ネジ」が模造できずに・・・。ネジ模造に関して、鍛冶屋の娘が活躍した話が伝わっている。娘の名が(ある会社の)種子島フェリー名につけられているはずです。(かなり前に乗船しましたので、現在は運航していないかもしれませんが、たぶん「プリンセスわかさ」だったと記憶しています。鉄砲づくりの鍛冶屋の娘(若狭・わかさ)の活躍は、種子島では有名でしたから。1543年以後の話ですから、事実が脚色されているかもしれませんが・・・。(参考 『鉄砲伝来秘話 若狭姫物語』伊藤宏見著より)
国友町においても、「螺子(ねじ)発明の地」碑があり、ネジを切る方法を国友村の鍛冶師が発明した記録が残っているようでした。
堺における鉄砲づくりに関しては、まだ十分に把握できていないのですが・・・、この3月に新しく『堺鉄砲鍛冶屋敷ミュージアム』がオープンしましたので、近日中に見学したいと思っています。
堺における鉄砲づくりに関しては、別の機会にこのブログでも取り上げたいと思っています。とにかく、日本で唯一保存されてきた「鉄砲鍛冶屋敷・井上関右衛門家住宅」(井上家は、近年までお住まいでした建物)で、保存されてきた歴史的史料もたくさん残されていました。(研究者にとっては、たいへん貴重な資料群のようです。)
帰りのバスが来るまでに、近くの川(姉川)を見学しに行きました。「姉川の戦い」古戦場の近くであり、私たちが見学できた地も、古戦場になっていました。「姉川の戦い」は、1570年に姉川河原で起こった合戦で、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が戦った。結果、織田・徳川連合軍が勝利した。
見た感じでは、川の深さは膝ぐらいで、それほど深い川ではなかった。私たちが見た地点より上流の河原は広々としているように思われました。主たる戦いの場所はもう少し上流部(約1km先)だったようです。
国友町の探訪・見学を終え、帰路に着きました。青春18切符利用でしたので、JR阪和線・三国ヶ丘駅まで同一行動。駅前で夕食を食べ、解散しました。楽しいグループ「歴史探訪」になりました。リーダー的存在のTさんに、今回も(企画・案内など)お世話になりました。感謝。
一番古い盆梅か? 幹がすごいですね。枯れずに花が咲くのですから!
しだれ桜ではなく、「梅」でした。こちらも、見事!
庭園から彦根城を眺めて、パチリ。 この眺望、よかったですね。
正面が大通寺 参道より写す(平日でもあり、人は少なかった)
国友一貫斎(東洋のエジソン・反射望遠鏡など発明 科学者)生家
一貫斎についての説明板
「螺子発明之地」碑 国友次郎助屋敷跡
写真に写っている川=姉川 この地も姉川古戦場の一部