emikolife 265話は『ニューシネマパラダイス』の中の主人公サルヴァトーレと母マリアの会話の場面について、話題にしました。
この265話の評価として「いいね」を押してくださった以外に、「続き希望」をクリックされた方もおられます。
続き希望って、どんな内容の話題を期待されるのかなぁ・・
確かにサルヴァトーレとマリアの会話を深掘りしていくと、人生や人間の本質みたいな部分に触れていくことになるので、
「あぁ、難しい話になってしまうので、後はこの映画を鑑賞してください」
と話を終わりにしています。
この話題をもっと続けてと言うことでしょうか?
そうであれば、もう少し、この場面に押し込められている心の本質みたいなものに対する、私の考えをおしゃべりしてみようか・・と、思う訳ですが。
この映画が表現していく多くの場面は、横において置くことにして、この二人の会話に表現されている心についてだけ考えてみます。
人生に立つ自身の年齢を基点にして
「年下の人を理解する言葉として、自分が来た道と言い、年上の人を見て、自分が行く道」
と表現します。
ーー若い人を見て非難する言葉が出るときは、自分も同じように未熟だったことを思い出しなさいーー
ーー高齢による衰えや人間性の低下は、将来の自分の姿に繋がるものだから、優しく受け入れようーー
このような言葉は、人として、万人が理解できる姿を表現しています。
でも、私たちの心の流れには、この家族を含めた他者との心の有り方の他に、もう一本の心の基盤になる、誰かを恋する心の流れがある訳です・・よね?
この言葉には、賛否があるかもしれません。
「誰かを愛して、家族になり、家族愛に満ちれば、誰かに恋するなんてあり得ませんよ!」
って、本心から言われますか?
「それは、恋ではなくて性欲でしょう」
って、おっしゃいますか?
そこなんですよね。いろんな愛情の形の中にあっても、恋する心はスッと自身の心の内を突き抜けている。
まさにイメージ化され、表現化されたハートを矢が射抜いているイラストは、恋ですよね。
この映画で、サルヴァトーレは、若い時に愛していた女性への思いが、30年経っても、なにも変わっていないことに打ちのめされます。
初老になっても別れた女性を恋しく思う心を見つめ、夫を亡くし、独り身で通したマリアに、
「だれにも恋せずに・・・」
と聞きます。
ここですよね・・
「ニューシネマパラダイスの真実性とタイトルにした訳がここですよ」
人の心の真実の一面が、言葉として表現されていますよ、って言いたかったのです。
人は、いくつになっても恋をすることに、誰もが知らないふりをしていますよね・・。
だけど、恋する心が、笑顔やうきうきした軽やかな感情を生みだしてくれることを、心地よいと感じています。
初老になっても、高齢になっても、恋する心は、若い時と変わらずにあり続けていきます。
いつまでも、誰かに恋する自分でいたいとは思いますが・・
私がこれから行く道、高齢期の心はどの様になるのか・・
この話題を、先ゆく人に聞くことは、なかなかできません。
年と共に老化を感じながらも、内面に恋する気持ちがあったら、苦しいでしょう・・と思います。
そうなると、自分を否定し、無力だとし、魅力のない老人だと位置づけることで、恋する気持ちを消していく、忘れていくことになるのでしょうか?
ここまで気づけば、そうならないための心構えで生きていくことは、出来ますかねぇ( ^ω^)・・・。
あぁ、やっぱり難しい話になってしまって、とりとめがありません。
高齢期の心理については、まだ未知のこととして、おしゃべりを終わります。