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本と音楽とねこと

サヨナラ、学校化社会

上野千鶴子,2008,サヨナラ、学校化社会,筑摩書房.(7.17.24)

93年、東大に移ってきた上野先生は驚いた。なんて素直な、課題を効率よくこなす学生なんだ、と。そして怒り心頭に発した。レポートがどれも講義の要約だったからだ。…「国民」を育てる近代装置である学校。変革の時代にこのシステムの弊害は大きい。知識よりも知恵があり、どんな状況にもサバイバルできる能力を備えた人間を育てるにはどうしたらいいのか。実践的マニフェスト。

 わたしが、在籍する、あるいは卒業した学校に、優越感をもったり、コンプレックスをいだいたりする、そんなことから解放されたのは、大学生のときだった。

 わたしが大学生だったころは、語学、ゼミ以外の授業は、まったく出席をとっていなかった。
 なかには、「僕の拙い講義聴くより図書館で本読んで勉強したがいいよ」と言う教員もいた。

 だから、大学の授業はあまり出席せず、アルバイトばかりしていた(←主に心斎橋や東梅田のレコード屋でレゲエやUKロックのレコードを買う資金調達のため)が、本はよく読んでいた。

 パン工場での深夜勤のあと、電車のつり革に掴まって読みふけった、ヴィルフレッド・パレート・・・。

 家庭教師、学習塾講師、パン工場での商品仕分け(深夜勤)、学習教材会社、税理士事務所の一般事務、家具配達、結婚式場の片付け等々、さまざまなアルバイトをした。

 そこで、いろいろな人たちに出会った。
 賢い人もそうでない人もいた。
 そして、人の賢明さ、愚かさと学歴、学校歴には、なんの関係もないことがわかっていった。
 バカなくせに威張りくさる連中に、中途半端な高偏差値大学出身者が多いことについても。

 イヴァン・イリイチやパウロ・フレイレの近代学校教育批判にも、大いに啓発された。

 そのうち、自分の学校歴など、歯牙にもかけないようになっていった。

 学校化社会とは、「明日のために今日のがまんをするという「未来志向」と「ガンバリズム」、そして「偏差値一元主義」」といった学校的価値が、学校空間からあふれ出し、それ以外の社会にも浸透していった状態。学校的な業績原理や組織の論理などが、学校以外の領域でも適用されてしまう社会といっていいだろう。会社でもサークルでも大学院でもその他の組織でもいいが、「未来志向」と「ガンバリズム」、何らかの客観化・一元化可能な指標によって人を序列化しうるという発想(その指標の目標値を達成すれば正のサンクションが与えられるべきだ、という共同幻想の実体化)は、複雑な社会の成り立ちを考えれば、そして近代以前の社会のあり方を考えれば、相当にローカルなものにすぎないはずだ。(後略)
(北田暁大、pp.250-251)

 勉強や研究は、それが自らの経験に根ざした問題意識や知的好奇心から出立するものである限り、楽しいものだ。
 勉強や研究が、学校化社会の価値尺度により、目的のための手段に貶められるとき、それは苦役となる。

(前略)なにか理想化された公的価値や理念のために現在とか自分があるという評価軸は、マジメな人のマジメな評価軸です。これこそが「学校的価値」というものでした。
 他人の価値を内面化せず、自分で自分を受けいれることを「自尊感情」といいます。オウムの若者たちは、この自尊感情を奪われた若者たちでした。
 ならば自尊感情はだれが植えつけてくれるのか。他人から尊重された経験のない人は自尊感情をもてない──これはフェミニズムがずっと言ってきたことでした。エリートたちが育った学校は、彼らの自尊感情を根こぎにした場所でもありました。学校が自尊感情を奪うのは、劣位者だけからとはかぎりません。学校は優位者にたいしても、彼らの人生をなにかの目的のためのたんなる手段に変えることで、条件つきでない自尊感情を育てることを不可能にする場所なのです。
(pp.224-225)

 学校化社会においては、「偏差値四流校」(←上野さんが本書で使っている用語です)の出身者は「敗者の不満」をいだきがちだが、高偏差値大学出身者も「勝者の不安」にさいなまれる。
 どちらにとっても、不幸なことだ。

 ところがそれを八方ふさがりにして、子どもの退路を断つことを、大人がよってたかってやっている。自分と違うことを言う大人が子どものまわりにいてやったほうがいいとは、大人は思わなくなってきている。いま流行りの学校と家庭と地域の「連携」などということも、私にはそのように映ります。
 そういう現象を、学校化社会、学校的価値の一元化と呼ぶのですが、このような価値の一元化のもとでの優勝劣敗主義が、一方で敗者の不満、他方で勝者の不安という、負け組にも勝ち組にも大きなストレスを生むのだとしたら、このシステムのなかでは勝者になろうが敗者になろうが、だれもハッピーにはなっていません。
 学校化社会とは、だれも幸せにしないシステムだということになります。
(p.76)

 学校化社会の一元的な価値尺度は、ジェンダーにより異なった適応様式を生む。

 成績の優秀な女の子たちは業績原理に同一化し、「女の私だってやればできる、やれば認めてもらえる、男の子といっしょに競争もできる」と考え、上級学校への進学を目指します。彼女たちは自分の成績への影響が心配だから、みずから自己規制をし、性的な行動も抑制し、先生にとってはティーチャーズ・ペットになる女の子たちです。
 もう一方で、成績のよくない女の子たちのあいだでは、業績でみずからの人生を切り開くオプションが早い時期に閉ざされます。彼女たちに残された生存戦略のための資源は、セクシュアリティと女性性です。したがって、そこでは過度に女性性に磨きをかけ、自分がもてることで、成績の優秀な、もてないまじめでブスな女の子たちを差別化し、一刻も早く大人の女らしくなって男を手玉にとる、あるいは男に自分を高く売りつけようとします。女性性の価値を内面化し強調していくことによって、逆説的に男性に利用されやすい女性性を、みずから主体的に獲得していくのです。
 「敗者の不満、勝者の不安」を強いる学校という大変に困ったシステムのなかで、このストレスが男女にどうかかるかというジェンダー差を見てみると、男の子は競争から逃げられない。しかし、女の子はそれから逃げる口実をジェンダー規範が与えてくれています。「どうせ女だから、やっぱり男の人には勝てないわ。女の幸せは結婚よ」と言いながら、競争から降りることを正当化し、降りることを後押ししさえするような力が働いてます。
 今日でも、女の子のなかに家庭願望とか専業主婦志向が強いことが報告されていますが、私はそれを女の子の保守化だとは単純に見ていません。そうではなく、偏差値競争というきびしい競争社会から降りたい女の子たちに、いわばジェンダーのボキャブラリーが正当性を与えているのだろうと見ています。これもまた競争社会のある種の副産物だと言えます。
(pp82-83)

 本書が、小泉構造改革時、イケイケのネオリベ言説が流行していた時期に書かれたこと、そのことによる制約がある。

 正規と非正規社員、職員、その圧倒的な賃金格差をさておいて、自分で納得できる働き方、生き方を選べなんて、無責任にもほどがある。
 また、米国のNPOが、日本にはない寄付文化の恩恵や自治体からの業務委託を受けて潤沢な予算を得ており、多数の有給スタッフを雇用していることも忘れてはいけない。

 仕事を外注されるスタッフ職の人も、ライン職のような地位や報酬はなくとも、仕事の性格が自分の価値とかテイストにあっている人の場合には、仕事そのものがあえてくれる喜びは金銭にかえられないということもあるでしょう。たとえ高給を提示されて正社員に誘われても、「私は現場が好きですから」と、それを蹴るのも選択です。このようにして、地位と金の一元価値にたいして、価値の多様化が起きてきます。
 階層化とはべつな言葉で言うと、選択肢と価値の多様化であり、おたがいが一元尺度で競わないし、競う必要がなくなる社会になることです。ただし、その場合、処遇の違いがあるということを、おたがいが合意しなければなりません。そして、私はこういう生き方を選んだのだというかたちで、自分のライフスタイルを確立しなければならない。フリーターや派遣社員として生きていくことも大いにけっこう。そのことが不公正や差別をもたらさない制度の整備には、私たちは大いに努力すべきでしょう。しかし、それは自分自身のライフスタイルをつくりだすための基礎条件にすぎません。
 アメリカという社会はその点ひじょうにおもしろくて、たしかにきびしい競争社会なのですが、同時にその競争から降りたライフスタイルで生きていくことも可能にする、社会的な「すきま」がとても多い社会でもあります。さまざまなユニークなライフスタイルが平気で共存していて、おたがいにそれを比べあったり競いあったりしない。
 NPOやボランティア団体もそうした「すきま」のひとつで、どこかにはいりこめばそれなりに自分の居場所があるし、競争社会からはずれて生きてもかまわない。だれもがおたがい似かよった、画一的なライフスタイルで生きなくてもいい。ウォール街のエグゼクティブなビジネスマン、その隣のハーレムで貧困児童とかかわるNPO、さらにカリフォルニア山中でのコミューン暮らし・・・・・・さまざまな生き方が並立していて、それがアメリカ社会を多様でおもしろいものにしているのではないでしょうか。
身分制社会とはそういうものです。士農工商の身分ごとにライフスタイルがあって、おたがいにその垣根を超えないように統制されていた。それが崩れて、みんなが一元的に武士階級のまねをしはじめたのが日本の近代化でした。
 それを梅棹忠夫さんはサムライゼーションと呼びました。日本の近代化にもう一つべつの選択肢があったとしたら、それはなんだったか?梅棹さんはそれをチョーニナイゼーションと名づけました。金と権力に価値を置かず、宵越しの金を持たない現在志向の町人的ライフスタイルです。
 私は身分制がよいと言っているわけではありません。たがいに羨まなくてすむ多様な選択肢があって、そのあいだで自由に選択したり、そのあいだを自由に移動できればいいと思っているのです。だれだって努力しさえすれば金と権力が手にはいるという、国民総サムライゼーションの幻想に巻きこまれて馬車馬のように走らされてきた近代百五十年が、ようやく転換を迎えています。いいことではありませんか。
(pp.218-220)

 学校的価値から自由になり、思う存分に知的好奇心を充たし、ときには自ら得た知識、知恵により実存的問いに暫定的な解を導き出すこと、大学は、そのための試行錯誤の場であるべきだ。

目次
1 東大生、この空洞のエリートたち
2 学校に侵食される社会
3 少女・母・OLたちの学校トラウマ
4 学校は授業で勝負せよ
5 授業で生存戦略、教えます
6 上野千鶴子の楽屋裏
7 ポストモダンの生き方探し


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