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安全に狂う方法──アディクションから掴みとったこと

赤坂真理,2024,安全に狂う方法──アディクションから掴みとったこと,医学書院.(12.4.24)

 アルコール、薬物、ギャンブル、仕事、恋愛、セックス、拒食・過食等々、人はさまざまなもの、こと、人に執着、固着する。

 赤坂さんは、アディクションが、抑えがたく癒しがたい生きづらさから逃れるためのものであるとする。
 そして、アディクションが、人が自死しないための切羽詰まった逃避である、とも。

 固着による苦痛、苦悩から逃れるための固着もまた、別ようの苦しみをもたらす。

 何かに固着すること。こだわらずにいられず、そのことが頭から離れず、実行せずにいられない気持ちになること。しかしその実行によって、新たな苦しみが生まれてしまうこと。
 考えてみれば不条理きわまりないこうした状態に、ある年齢以上の人間のほぼ全員が悩んだことがあるはずだ。これはほぼ心のメカニズムそのもののようにも思える。だからアディクションについて考えることは、人類にとっての「心の取り扱い説明書」を書くようなものだとわたしは思う。
(p.20)

 すなわち、アディクションとは「努力の病」である。アディクションは多かれ少なかれ、自分でないものを生きることから来ていて、そこからの軋みや苦しみの出口としてあるのが、やはり各種アディクション行為なのではないか。つまり、固着した役割がつらく、そして固着から外れようとする手段にまた固着してしまう。
 どこまでも固着の中にある。
(p.52)

 人は、苦しみや自死の危険から逃れるために、狂うことがある。

 狂気の果てに自他を毀損する最悪の事態を回避するためには、どうすればよいのか。

 「あなたには、安全に狂う必要があります」
 愛する人を殺しそうで怖くて、会いに行った女性セラピストは、わたしにそう言った。彼女は驚きもせず、わたしが言ったことをそのまま受け取った。人を殺しそうとは物騒ですねとか、感情を抑えましょうとか、感情を見つめましょうとか、感じきりましょうとか、アンガーマネジメントをしましょうとかは一切言わず、はっきりと、先の一文を、このうえない毅然さと丁寧さで、そこに置くように口にした。
(p.66)

 どんなアディクションも幸せになるために始めた。シンナーでワープできたり、お酒を飲んだら大らかになって苦手な人ともコミュニケーションができた。そういうことが楽しくて、うれしくて、始めたら、ハマった。しかし手段にハマるのはなぜか。アディクションで得られた多幸感さえその場の対症療法にすぎず、そもそもそれを求めるに至った原初の痛みについては、手をつけられないからではないだろうか。
 原初の痛みは、もっと深いところにある。それを見るのがあまりに痛すぎたり、それを修復できるすべがあるとは思えなくて、自暴自棄に、あるいは関係者への──もっと端的には愛した者への──復讐のようにハマっていくのかもしれない。
 アディクションの大きな要因として「復讐」がある気がしてならない。自分を傷つけた人に対して「あなたが悪い」と表現すること、思い知らせること。これは、古くから「当てつけ」として自殺や自傷の理由としてあったものと同じだろうと思う。そして「当てつけ」や「思い知らせ」「復讐」が外へ向くと、他害として犯罪になる。
 愛の不在にこそ、アディクションは生まれる。それは愛の代わりに自分を慰めてくれるものでもあるのではないか。そして愛の大もとをたどると原初に愛した者、母親に辿り着くのではないか。その関係で愛が流れなかったこと。その大もとの痛みに触れるのはむずかしい。そこには技術がなくてはならない。
(pp.93-94)

 実在する母、ではなく、ありのままの自己を全面的に肯定し、包摂してくれる存在を体感すること。

 人間には、そうしたスピリチュアルな実在が必要だ。


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