千葉雅也・二村ヒトシ・柴田英里,2021,欲望会議──性とポリコレの哲学,KADOKAWA.(2.1.24)
ポリコレとは、Political Correctness、すなわち、政治的正しさのことであり、端的にいえば、社会の特定のカテゴリーに属す人々が、差別、抑圧、排除されることがないよう、ある意味、中立的な言葉遣いをすることである。
ことばの多様性を考える:社会言語学の視点から
米国の「黒人」を「アフリカ系米国人」と言い換えるのが分かりやすい例であるが、日本社会において、例えば、「精神分裂病」を「統合失調症」、「痴呆」を「認知症」と言い換えるようになったのも、ポリコレの表れと見て良いだろう。
しかし、言い換えたからといって、差別がなくなるわけではない。ポリコレは、ときに差別を隠蔽する方便となる。わたしも、「障害」を「障がい」と表記することにしているが、もしかしたら、わたしは、ポリコレ的表記をすることにより、差別していない自分を呈示しているにすぎない偽善者なのかもしれない。
また、ポリコレは、しばしば、わたしたちを、「言葉の奴隷」に貶める。
例えば、「背が低い人」であるとか、「背が高い人」と言ってはいけない。なぜなら、当事者を傷つけることで劣等感情をもたらし結果的に排除することにつながりかねないから。vertically challenged(垂直方向に課題を抱えた人)と言いなさい。「太っている」と言ってはいけない。horizontally challenged(水平方向に課題を抱えた人)と言いなさい。
バカバカしいと一蹴できないところに、ポリコレ的世界の難しさがある。わたしたちは、他者の体型、容姿について、なんらかの言葉をあてるとき、躊躇いを感じる。いや、そもそも、他者の体型、容姿について、いかなる言葉も付与してはいけない、そんな禁圧がかかる社会に、わたしたちは、生きている。
前置きが長くなった。
本書は、ポリコレ的世界のなかに生きるわたしたちの、とくにセクシュアリティと表象のあり方について交わされた、丁々発止の対話、討論を収録したものである。
わたしたちは、ポリコレ的に、名指すことのできない不自由を生きている。
わたしは、大学の講義で、「セクシュアリティ」について論じる機会があるのだが、当然、言葉は、二重三重にオブラートに包んだものになってしまう。
学生を傷つけてはいけないからでもあるし、炎上するのが怖いからでもある。
本書の内容の紹介とコメントに移る。
ジュディ・シカゴの作品、「ディナー・パーティ」についての言及がある。(p.42.)
これは、レストランを模した一室に、テーブルを配置し、その上に、数多くの、女性器を模した陶器のディナーセットを展示するというものであった。
Judy Chicago's The Dinner Party
優れた文学作品や映画は、ときに、人を深く傷つける。
それは、一つには、わたしたちが、自らの実存を脅かすがゆえに抑圧してきたものを、優れた作品が曝し出すためだ。
しかし、ポリコレ的心性は、そうした表象をたちまち抑圧する。
表面的には正しさを確保しておいて、ダークサイドを見たくない人にはよくわからないように毒素を仕込むという二重性のある作り方をしないと、エンターテインメントとしては成立しづらくなっていますね。(二村、p.222.)
性愛と暴力、これも本書の重要なテーマとなっている。
(オーガズムの境地には)僕が主張するような「エロいセックスというのは、相手を大切にして溶けあうことなのだ」みたいな綺麗事では辿り着けない。むしろ千葉さんが言う「自分がぐちゃぐちゃにされる悦び」からトランス状態は来るのかもしれない。(二村、p.226.)
性暴力はけっして許されるものではない。
しかし、かならずしも、「きゅんきゅんする」恋と「損得勘定なしの無償の」愛とを前提としたセックスのみが、「最高の享楽」をもたらすわけではなく、そこに双方合意の上での暴力性が介在し、オーガズムなりトランスなりが得られるのであれば、それもまたあり、ということなのだろう。
性愛の享楽は、従来の自己の枠組みを破壊することによって得られるものでもあるのだから、性愛と暴力との親和性は否定できないところがある。ただし、それは、双方合意の上での役割演技としてのみ、認められるべきものであろう。
「性愛の享楽」は、双方が合意の上で、ともに能動的に行為することによって得られるとは限らない。
セックスの捉え方も同様に、攻めと受けがいて、どちらが誘ったのか、どちらがそれを承認したのかという責任問題になっていくし、レイプの問題も全部そこにかかっているわけじゃないですか。でも、セックスには中動態的なものがある。責任帰属が問えない状態のまま、あるエロティックな状況が起動して、その中で主客がよくわからなくなっていくという場面があるわけです。(千葉、pp.85-86.)
セックスの前に、トラブルとならないよう、「性交同意書」を交わすなど、まったく興醒めだ。相手が嫌がることを強行するのは論外ではあるが、「中動態」のままで成立する、偶然性、セレンディピティをともなう性愛の強度が高いのも、これまた事実である。
#MeToo運動の危うさについての指摘も鋭い。
性暴力被害者の心情にエンパシー──ブレイディみかこさんのいう「他者の靴を履いてみる」想像力──をもつことは、大切なことではあるが、エンパシーはしばしば暴走する。
自分たちが被害者であることの苦しみを、無関係な他人の傷にまで投影させて怒り狂うことで、気づかないうちに苦しみの享楽をしている、怒りの中毒というか依存症みたいになっているんだと気づいてはくれないか。(二村、p.68.)
また、性暴力被害体験のSNS等による拡散は、トラウマのインフレを引き起こす。
トラウマは、被害者その人固有のものであり、その一点において、被害者は尊重されるべきである。
しかし、トラウマの大量流通は、そうした被害者の個別性を損なってしまうことになりかねない。
傷の下落と交換の一般化がもたらす新たな価値とは何か?本当ならば、私がたとえ傷ついたとしても、それは私固有のもののはずなのに、それをSNS上で交換することで、特定の表象を、何か普遍的な女性という概念に対する犯罪にしたいんじゃないか。私は、それは女性性の一元化・本質主義化にすごく近いと思います。(柴田、p.250.)
ここで紹介しきれなかった論点も数多い。
性愛を論じるにあたっては、論者の、性愛の経験質と身体感覚とが、鋭く問われる。
性愛の経験質と身体感覚、ともに優れた3人の話者によって編まれた本書からは、共感と数多くの気付きを与えられることであろう。
「現代人は、20世紀までの人間から何か深いレベルでの変化を遂げつつあるのではないか?」#MeTooのような新たなフェミニズムの動き、ポルノ表現をめぐる攻防、LGBTへの社会的認識の変化、ペドフィリアの問題ほか。あらゆるものが炎上し続ける世の中で、食欲や金銭欲、物欲などにもまして自分のアイデンティティや主体性に直結する欲望「性的欲望」をめぐって、哲学者、AV監督、現代美術作家が語り尽くす異色の鼎談!
目次
第1章 傷つきという快楽
第2章 あらゆる人間は変態である
第3章 普通のセックスって何ですか?
第4章 失われた身体を求めて
終章 魂の強さということ
文庫版増補1 “人類の移行期”の欲望論
文庫版増補2 個人と社会のあいだで
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