デヴィッド・グレーバーのいうブルシット・ジョブ(BSJ)とは、「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でさえある有償の雇用の形態」を意味する。
BSJをやりすごすためにはBSJにふさわしい無意味な作業で対処するほかない。大学業務でいえば、シラバスや、授業評価、学生ポートフォリオへのコメントには、ひたすら同じ文言をコピペして「書類の穴埋め」に徹する。それを不誠実という人は、これらBSJがBSJではなくなにか意味のあることだと信じて疑わぬ、そうとうにあたまの足りない御仁ある。そういう御仁が、BSJを指揮するリーダーの「とりまき」なのだから、始末に負えない。「とりまき」のハイアラーキーをたどっていけば、文科省の事務次官やら、あるいは無能の極みの総理大臣まで、たどりつくのはまちがいない。
本書のいちばんの読みどころは、ネオリベラリズムと官僚制、そしてBSJとの親和性をわかりやすく説明している点にある。
定着農耕の成立、そして機械制大工業と近代官僚制の成立は、膨大な余剰生産物とともに、権力とその強制装置(司法・警察・軍隊)を生み出した。権力者には「とりまき」がはりつき、大から小まで、権力者と「とりまき」のハイアラーキーが社会の隅々まで覆いつくし、大量のBSJがつくられ続ける。権力の目的は、人々を監視すること、厳密には、監視したつもりになって安心することだ。そのために、権力は、大量の「完璧に無意味で、不必要で、有害でさえある」「書類の穴埋め」をつくり出し、押し付ける。
労働とは苦役であり、苦役であるからこそそれに耐え続けることが「神の使命」に応えることになる、という倒錯した「プロテスタンティズムの倫理」は、「完璧に無意味で、不必要で、有害でさえある」労働であるほど、その担い手が苦痛にさいなまれるからこそ価値があり高い報酬で報われるべきだという倒錯の極致に至る。
それでも、経済の成長が賃金上昇を約束していれば、工場やオフィスでのBSJを人々は受容した。(フォーディズム的妥協)しかし、実質賃金が漸減するなかで、報酬をエサにしてBSJを押し付けることは難しくなる。ネオリベラリズムによる生存権の毀損には、人間の命までもをエサにして、BSJを受容させようとする意図があるのだろう。また、社会保障における権利享受の過程は、官僚制組織がつくり出す些末な文書手続きによって埋め尽くされることになる。
BSJに汚染された社会は、「エッセンシャル・ワーク」を憎む。称賛しながら、その実、憎む。「エッセンシャル・ワーク」を前にして、自らの「完璧に無意味で、不必要で、有害でさえある」仕事のありようをいやでも自覚せざるをえないからだ。女性蔑視とBSJを価値あるものと見せかけようとする虚偽意識が、「エッセンシャル・ワーク」の報酬と労働環境を劣悪なままで放置する、いや、より労働条件を切り下げていく。
「もし「経済」に実質的で具体的な意味があるとしたら、それはつまり、人間がたがいにケアしあい、あらゆる意味で生存を維持するための手段であるということでなければならない。」(グレーバー)
本書は、グレーバーの所論をとおして、労働と社会保障のあるべき姿を構想することに資する、有益な導きの書である。
仕事とは何か?悩み苦しむすべての人へ。誰も見ない書類を作成する事務、上司の虚栄心を満たすだけの部下…資本主義や効率化が進めば進むほど無意味な仕事が生まれる「不思議」。『ブルシット・ジョブ』翻訳者が贈る特別講義!世界的現象の「謎」を解き明かす―
目次
第0講 「クソどうでもいい仕事」の発見
第1講 ブルシット・ジョブの宇宙
第2講 ブルシット・ジョブってなんだろう?
第3講 ブルシット・ジョブはなぜ苦しいのか?
第4講 資本主義と「仕事のための仕事」
第5講 ネオリベラリズムと官僚制
第6講 ブルシット・ジョブが増殖する構造
第7講 「エッセンシャル・ワークの逆説」について
第8講 ブルシット・ジョブとベーシック・インカム
おわりに―わたしたちには「想像力」がある
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