三浦耕吉郎,2024,自然死(老衰)で逝くということ──グループホーム「わたしの家」で父を看取る,新曜社.(11.25.24)
医療的な論理ではなく介護的な実践による、尊厳ある生のなかでの逝き方とは?超高齢者の終末期に過剰な医療的措置を施されたり、尊厳死という名の死の自己決定を強いられたりすることなく、いかに穏やかな自然死(老衰死)を迎えることができるのか。実父の最期の6日間の介護記録とその後のグループホームでのインタビューから、終末期のとくに疾患のない高齢者に対する「日常的なケア以外のことは何もせずに看取る」作法を考える。
団塊世代が大量死する時代を迎えて、わたしたちが遠ざけてきた「死」が、ごく日常の風景として可視化されつつある。
過剰な医療による延命措置が疑問視され、在宅での穏やかな死が望まれるようになってきたのだから、なおさらである。
本書は、グループホームで実父を看取った筆者が、「看取る息子」という自らの立ち位置から距離を取り、死をめぐる人々の心情と相互作用とを、父、介護者、きょうだいだけでなく、自らをも観察対象として記述された記録である。
もっとも興味深かったのは、物言わぬ死にゆく者と介護する者との繊細な相互作用である。
たしかに私たちが「看取る」というとき、当然ながらその主体は看取る側であり、死にゆく人は、いわば看取る側からの一方的な視線や判断にさらされる受動的な存在でしかなかった──「**に看取られて息を引きとる(!)」。それにたいしてFさんが目にしたのは、「皆に見守られて、お幸せに旅立ったんだな、お疲れ様」という表現に象徴されるように、周囲の者たち(家族や関係者や介護者)が、旅立つ人(=主体)にたいして、そっと見守りながらそれを支え=励まし=ねぎらう、といった光景だった。
重要なのは、「看取りにおける〈医療との距離化〉」という事態のなかで、従来の「看取る-看取られる」という、一方向的な関係性とは大きく異なる、いわば、「逝く人(つまりは往生する側)」と、その「往生」を見守る(支え、励まし、ねぎらう)者たち(しかも、その場にいる者だけでなく、私のようないない者も含めて)とのあいだの相互的な関係性が、前面に浮上してきていることである。そこには、〈医療との距離化〉──社会学的には「脱医療化」ともいえよう──がこの社会にもたらしつつある、「看取り」の意味の変容の兆しさえ読み取れよう。
(pp.182-183)
なぜなら、自然死で逝くということは、逝く側にとっては、〈医療との距離化〉によって終末期における入院、検査、治療といった過剰な負担を避けられるという点で〈楽な最期(往生)〉をもたらしていると同時に、それを見守る(ケアする、介護する、看護する)側にとっても、前章で見たように最後の最後まで逝く人の生命力との深い交感を体験することを通じてある種の癒しに達することができるからである。
(p.191)
一人の人間の自然死の過程が介護者と家族にもたらす作用を、微細に観察し記述する本書は、大量死時代の看取りのモデルとして参照するに値するものであろう。
目次
第1章 “尊厳ある生”のなかでの看取りとは?
第2章 “医療行為をしない人の死”はどのように訪れるのか?
第3章 介護スタッフの実践から見えてくる“本人の意思”
第4章 「最期の入浴ケア」が残したもの
第5章 “介護と医療のより良き連携”のゼロ地点から
第6章 訪問看護師―その役割の多様性と柔軟性をめぐって
第7章 “そのとき”は、いつ訪れるかわからない?!
第8章 “交響する看取り”のなかで
第9章 「生かす介護」から「もう少し楽な介護へ!」