優しいそよ風に、月明かり煌めく丑三つ時のこと。
火照った身体と頭に染み渡るような心地好い気候の中を、私は夢遊病患者のように呆然と、それでいて、何かに導かれているように、淀みなく歩を進めていた。
ここは……いったいどこなのだろう。頭が働かない。酷くモヤモヤする……頭に霧か靄でもかかっているようだ。
見覚えのある、よく見知った場所……のような気はするが、一向に思い出す気配はない。そもそも、私は何故こんな夜中に出歩いているのだろう。夜の散歩は、しない……いや、出来ないハズなのだが。
『あれー?どうしたのー?珍しいねー』
──不意に見知った顔が現れた。おやつなのだろうか、食べかけの木の実を抱えている。その顔は、絵に描いたようなキョトン顔であった。ほら、その目なんか、漫画のように点になって……ああ、いや、それはデフォルトか。
おそらく、感情と表情との連結具合において、この子に叶う者は居ないだろう。そのことがわかっているために、豊かすぎるその表情は、私の余計な思考を削ぎ落としてくれる。
普通なら冷たさを感じるだろうその単調な声質も、この子の場合はどこか温かく感じられる。そんな、空気のように軽快かつフワフワした口調で、私に声をかけてきた。
ええと……そうだな。ちょっと考え事……をしていてね。それに今日はとても気持ち良さそうな気候だし。
『へー、そうなんだ。ホントに今日は気持ちいいよねー』
うん。ところで、君は何をしていたの?
『ぼく?ぼくはねー……あ、そうだ。そんなことよりも、なにかあったのー?』
……え?いや、ええと……
あれれ、おかしいな?もしかして、私の話、華麗に流された?
少しだけ、そんなことを考えてしまったが、すぐにそれを打ち消した。この子のマイペース加減は、これまで何度も見てきた。私たち人間の感覚で言えば、本能に忠実なだけなのだ。今は自分のことよりも、私のことの方が気になる事項であった、ただそれだけなのだ。
それにしても、話の外れ方がまた独特だ。何かあったの、か。流石はこの子も「彼ら」の一員だけある……もしかしてこれも本能……いや、直感?
確かに、私の心の中は今、霧がかかった状態なのだ。その霧は非常に濃く、私自身原因が何なのか、わかっていない。もしかすると、私が今この場所で歩いているのも、それが原因なのだろうか。
しかし……まあ、余計な心配はかけない方が良いだろう。
いいや、特に何もないよ。大丈夫。
『ふーん。あ、ちょっと待っててー。折角だし、一緒に散歩しようよー。みんな呼んでくるからさー』
……あれ?
『あ、絶対動いちゃいけないよー?ぼくとの約束ねー?』
いや、あの……
そう言うと、この子は持っていた木の実を一口で平らげ、瞬く間にその場から去ってしまった。この子にしては珍しく、強引な態度だったのが印象的であった。しかし、その前に……
……これ、やっぱり私の話聞いてもらえてないよな。というより、聞く気が無いんじゃなかろうか。本当、なんなんだろうこの子は……
愛着と呆れの感情を抱きながら、あの子の言う通りにしばらく待ってみることにした。まあ、そもそも私は目的も無く歩いていた訳だし、これも気晴らしにはもってこいなのではなかろうか。
あの子が来たときから、私の足は、その場で動きをやめてしまっていた。
…………
……
しばらくして、あの子は戻ってきた。……単眼で真っ黒い同伴者を一人伴って。その時から、どことなく、辺りの気温が下がった気がした。
……あれ?一人?さっき"みんな"って……聞き間違えかな。それに……おかしいな。なんだろう。"怖い"……?
『あ、ほら、いたいた。こっちこっちー』
『ふう……まったく。どうして貴方はこんなところに来られたのですか。我々も肝を冷やしましたよ……』
お、お疲れ様です……貴方も一緒に行くんですか?
『……なるほど。いや、失礼を致しました。仰る通り、今宵は私もご一緒させていただきます』
『散歩するなら、やっぱり大勢の方が楽しいからねー』
そ、そういうものなのかなぁ……?
私としては、普通散歩とは一人でするものだと思うのだが……だって、その方が気楽だし。自由だし。まあでも、確かに同伴する者にもよることだ。一概には言えないか……
『さ、参りましょうか。……その前に、彼からおまじないをかけていただいては如何でしょう。今宵は少し趣向を変えて、"空の散歩"をしてみませんか?』
なにそれ、めっちゃしたい。絶対気持ちいいじゃんそれ。
『じゃあ、決まりだねー。ぼくの得意技だから、安心してー。それじゃあ、行くよー、ちょっと目を閉じててねー』
彼らの言う通りに、私は目を閉じた。暗闇の中で、月の明かりが瞼を透けて見える気がする。
彼らが何やら呟き出した。今話していた、おまじないというやつだろうか。少しして、突然不思議な感覚に包まれた。先程とはうって変わって、とても心地の良い、安心の中に居る感覚。上下の認識が無くなり、水の中で漂っているような感覚。宇宙空間で生活出来るなら、それはこんな感じなのだろう。
そしていつしか、とても不安定な感覚に襲われた。まるで、本当に私の精神が、宙に浮かんでいるような……浮かんで……あれ?
『はい!もういいよー』
『慌てないでくださいね。まずは身体を動かさず、落ち着いて、ゆっくり目を開いてみてください。大丈夫です、我々が居ますから』
恐る恐る目を開けてみる。どうやら今私の身体は空と対面しているらしい。先程と比べ、あの煌めく月が大きくなった気がする。……え?あれ?これ……スゴい、本当に浮いてる!私空飛んでる!何これ怖い!
『そうです。今私たちは今、宙に浮かんでいます。怖がることはありませんよ。慣れるまで、私が支えとなりましょう』
『どうー?楽しいでしょー?大きい声を出すと、もっと楽しいよー?』
え、ホントに?わかった、やってみる!イィィィィィヤッホォォォォォォオオオ!
『おー、いいねいいねー!』
『はっはっは。良いお声です。貴方に楽しんでいただけて、私達も安心致しました』
『ホントにねー!良かった良かったー!』
『ふふ。……さて、このまま半刻ほど、漂ってみましょう。ただし、ひとつだけお約束ください。決して、"地面を直視してはいけません"よ。おまじないが切れてしまいますから。視界の端に入るくらいなら、問題ありませんが』
彼からの忠告について、私はさほど違和感は感じなかった。それよりも、現在のこの状況を、より長く楽しむことの方が、その時の私には先決だった。
とても良い気持ちだった。
自分は何処へでも行けるような、何も私を縛ることは出来ないというような、圧倒的な高揚感と解放感。まるで自分が、大空を吹く風になったかのような躍動感。それらすべてが私を包み、底無しの幸福感が押し寄せた。
空を飛ぶ、といえば、私は手を広げ、Tの字になって飛ぶものを想像していた。しかし実際にはほとんど直立の状態で飛んでいた。
空気抵抗やなんかは……ということも気になったのだが、こうして飛んでみると、思いの外抵抗は感じられない。まるで私の身体が透き通り、実態を失い、すべてを透過している……そんな錯覚にすら襲われるほどである。
しかしそれでいて、空気の壁の存在は、ハッキリと感じられた。風に優しく包み込まれている感覚であった。
眼下には──と言っても、彼の忠告を守り、直視はしていないが──蒼く煌めきながら立ち並ぶ木々が、風に揺さぶられることで、見事な演奏が繰り広げている。遠くに見える町中では、ほとんどすべての家々が寝静まる中、時折車の明かりが、市街地の迷路の中を滑らかに這っている。そして、それら一切を、淀みない月明かりが照らしている。
筆舌し難いほどの、素晴らしい景色を堪能しながら、私は我を忘れて彼らと共に飛び回っていた。
…………
……
さて、どのくらい経ったのだろう。さっき彼は、"半刻ほど飛び回る"と言っていた。……いや、"半刻ほど漂う"だったかな。まあいい。
とにかく、そう言うからには、まだそれほど時間は経っていないのだろう。しかしながら、私の体感では、もう数時間も楽しんでいるように感じられた。
不意にあの子が声を上げた。
『あっちの方の空を見てー!だいたい、あそこらへんだよー!ぼくらの家ー!』
『おお、改めて見ると……良い屋敷ですね。あの明かりは……そうですか、そろそろご飯が出来上がるみたいですよ』
あの子の指す方向……の空を見ると、真っ暗な町中に、一件だけ、昼間のように明るい家が見える。一瞬、近所への迷惑を考慮したが、その実近隣の家々は、まるでそこにそんな家など無いかのように、どの家も寝静まっている様子だった。
『あそこに到着する辺りで、丁度半刻です。もう大丈夫でしょう。そろそろ、終わりの時間です。いずれ……そう、機会がありましたら、また空の散歩を致しましょう。……今度は、皆でちゃんと家から出発して、ね。
ライドさんも、お疲れ様でした。報せてくれてありがとうございました』
『ホントにびっくりしちゃったよーもー。ヨノワさんが居てくれてよかったー。けど、結局ぼくも楽しかったよ!』
『ふふ、そうですね。私も楽しめました。……さてと、あとはお待ちかねの"ご飯"の時間です。急いで戻りましょう』
『さんせー!』
彼らの言葉は、途中から聞き取ることが出来なかった。降下が始まると、私が下を見ないようにするためだろう、彼がその大きな手で、私の顔をしっかりと包みこんだためだ。彼の手は、とても暖かかった。
そして、そのまま、私の意識は遠退いていった。晴れやかな心の中で、そよ風のような幸福感が吹いていることを、強く感じ取りながら。
…………
……
『あ、起きたみたいだねー』
『おはようございます。朝になりましたよ』
「……ああ、おはよう、ヨノワ、ライド」
『どうされました?』
「いや、なんだか唐突に気分が良くてさ。昨日までモヤモヤしてたものが無くなったみたい……なんだけど……」
『あら、それは良かったねー』
『良い夢でも見られたのですか?』
「それが、思い出せなくてさ……朧気ながら残ってるものはあるんだけれどね」
『ほう?それはどのようなものです?』
『きかせてきかせてー』
「……変なこと言ったらゴメンね。あのさ、私、最近ゴルーグさんかシロデスナさんに何かした……とかって話、聞いてない?」
『いーや?そんな感じはしなかったよー。ヨノワさんはどう?』
『……?いえ、特には……何かされたのですか?』
「いや、私としては特にしてないハズなんだけど……なんだか、直視しちゃあいけないんじゃないかって気がしてさ」
『……!』
『……なるほど。
それはおかしな話ですね。詳細は私達にはわかりかねますが、おそらく、気にすることは無いでしょう。"地面を直視してはいけない"なんてルール、ここにはありませんからね』
「えっ!?……あ、いや、うん。そうだよね。そりゃあそうだ。……にしても、なんでだろう……?」
『さあ。夢というものは、不思議な世界ですからね。兎に角、気にすることはありません。さあ、お食事は出来ていますよ』
「……まあ、いいか。なんだか気にならなくなったし。すぐ行くよ」
『おっけー』
『お待ちしています』
「……あ、ちょっと待って」
『なにー?』
『どうしました?』
「あのさ。なんだか……君らも、何か良いことあった?」
『あー……うん、まあねー』
「へぇ。何、聞かせてもらえない?」
『そうですね……実は昨夜、我々にとってのご馳走が、手に入りましてね……?』
そう言って、普段と違う表情をする彼ら。その顔には見覚えがあった。
それは、彼らがここに来る前の、私と敵対関係にあったときに浮かべていた、あの冷酷で非情の表情だった。
そして私には、彼らの"ご馳走"が何なのか、不思議とよくわかるような気がした。背筋に走る悪寒の存在を、意識せずにはいられならなかった。
火照った身体と頭に染み渡るような心地好い気候の中を、私は夢遊病患者のように呆然と、それでいて、何かに導かれているように、淀みなく歩を進めていた。
ここは……いったいどこなのだろう。頭が働かない。酷くモヤモヤする……頭に霧か靄でもかかっているようだ。
見覚えのある、よく見知った場所……のような気はするが、一向に思い出す気配はない。そもそも、私は何故こんな夜中に出歩いているのだろう。夜の散歩は、しない……いや、出来ないハズなのだが。
『あれー?どうしたのー?珍しいねー』
──不意に見知った顔が現れた。おやつなのだろうか、食べかけの木の実を抱えている。その顔は、絵に描いたようなキョトン顔であった。ほら、その目なんか、漫画のように点になって……ああ、いや、それはデフォルトか。
おそらく、感情と表情との連結具合において、この子に叶う者は居ないだろう。そのことがわかっているために、豊かすぎるその表情は、私の余計な思考を削ぎ落としてくれる。
普通なら冷たさを感じるだろうその単調な声質も、この子の場合はどこか温かく感じられる。そんな、空気のように軽快かつフワフワした口調で、私に声をかけてきた。
ええと……そうだな。ちょっと考え事……をしていてね。それに今日はとても気持ち良さそうな気候だし。
『へー、そうなんだ。ホントに今日は気持ちいいよねー』
うん。ところで、君は何をしていたの?
『ぼく?ぼくはねー……あ、そうだ。そんなことよりも、なにかあったのー?』
……え?いや、ええと……
あれれ、おかしいな?もしかして、私の話、華麗に流された?
少しだけ、そんなことを考えてしまったが、すぐにそれを打ち消した。この子のマイペース加減は、これまで何度も見てきた。私たち人間の感覚で言えば、本能に忠実なだけなのだ。今は自分のことよりも、私のことの方が気になる事項であった、ただそれだけなのだ。
それにしても、話の外れ方がまた独特だ。何かあったの、か。流石はこの子も「彼ら」の一員だけある……もしかしてこれも本能……いや、直感?
確かに、私の心の中は今、霧がかかった状態なのだ。その霧は非常に濃く、私自身原因が何なのか、わかっていない。もしかすると、私が今この場所で歩いているのも、それが原因なのだろうか。
しかし……まあ、余計な心配はかけない方が良いだろう。
いいや、特に何もないよ。大丈夫。
『ふーん。あ、ちょっと待っててー。折角だし、一緒に散歩しようよー。みんな呼んでくるからさー』
……あれ?
『あ、絶対動いちゃいけないよー?ぼくとの約束ねー?』
いや、あの……
そう言うと、この子は持っていた木の実を一口で平らげ、瞬く間にその場から去ってしまった。この子にしては珍しく、強引な態度だったのが印象的であった。しかし、その前に……
……これ、やっぱり私の話聞いてもらえてないよな。というより、聞く気が無いんじゃなかろうか。本当、なんなんだろうこの子は……
愛着と呆れの感情を抱きながら、あの子の言う通りにしばらく待ってみることにした。まあ、そもそも私は目的も無く歩いていた訳だし、これも気晴らしにはもってこいなのではなかろうか。
あの子が来たときから、私の足は、その場で動きをやめてしまっていた。
…………
……
しばらくして、あの子は戻ってきた。……単眼で真っ黒い同伴者を一人伴って。その時から、どことなく、辺りの気温が下がった気がした。
……あれ?一人?さっき"みんな"って……聞き間違えかな。それに……おかしいな。なんだろう。"怖い"……?
『あ、ほら、いたいた。こっちこっちー』
『ふう……まったく。どうして貴方はこんなところに来られたのですか。我々も肝を冷やしましたよ……』
お、お疲れ様です……貴方も一緒に行くんですか?
『……なるほど。いや、失礼を致しました。仰る通り、今宵は私もご一緒させていただきます』
『散歩するなら、やっぱり大勢の方が楽しいからねー』
そ、そういうものなのかなぁ……?
私としては、普通散歩とは一人でするものだと思うのだが……だって、その方が気楽だし。自由だし。まあでも、確かに同伴する者にもよることだ。一概には言えないか……
『さ、参りましょうか。……その前に、彼からおまじないをかけていただいては如何でしょう。今宵は少し趣向を変えて、"空の散歩"をしてみませんか?』
なにそれ、めっちゃしたい。絶対気持ちいいじゃんそれ。
『じゃあ、決まりだねー。ぼくの得意技だから、安心してー。それじゃあ、行くよー、ちょっと目を閉じててねー』
彼らの言う通りに、私は目を閉じた。暗闇の中で、月の明かりが瞼を透けて見える気がする。
彼らが何やら呟き出した。今話していた、おまじないというやつだろうか。少しして、突然不思議な感覚に包まれた。先程とはうって変わって、とても心地の良い、安心の中に居る感覚。上下の認識が無くなり、水の中で漂っているような感覚。宇宙空間で生活出来るなら、それはこんな感じなのだろう。
そしていつしか、とても不安定な感覚に襲われた。まるで、本当に私の精神が、宙に浮かんでいるような……浮かんで……あれ?
『はい!もういいよー』
『慌てないでくださいね。まずは身体を動かさず、落ち着いて、ゆっくり目を開いてみてください。大丈夫です、我々が居ますから』
恐る恐る目を開けてみる。どうやら今私の身体は空と対面しているらしい。先程と比べ、あの煌めく月が大きくなった気がする。……え?あれ?これ……スゴい、本当に浮いてる!私空飛んでる!何これ怖い!
『そうです。今私たちは今、宙に浮かんでいます。怖がることはありませんよ。慣れるまで、私が支えとなりましょう』
『どうー?楽しいでしょー?大きい声を出すと、もっと楽しいよー?』
え、ホントに?わかった、やってみる!イィィィィィヤッホォォォォォォオオオ!
『おー、いいねいいねー!』
『はっはっは。良いお声です。貴方に楽しんでいただけて、私達も安心致しました』
『ホントにねー!良かった良かったー!』
『ふふ。……さて、このまま半刻ほど、漂ってみましょう。ただし、ひとつだけお約束ください。決して、"地面を直視してはいけません"よ。おまじないが切れてしまいますから。視界の端に入るくらいなら、問題ありませんが』
彼からの忠告について、私はさほど違和感は感じなかった。それよりも、現在のこの状況を、より長く楽しむことの方が、その時の私には先決だった。
とても良い気持ちだった。
自分は何処へでも行けるような、何も私を縛ることは出来ないというような、圧倒的な高揚感と解放感。まるで自分が、大空を吹く風になったかのような躍動感。それらすべてが私を包み、底無しの幸福感が押し寄せた。
空を飛ぶ、といえば、私は手を広げ、Tの字になって飛ぶものを想像していた。しかし実際にはほとんど直立の状態で飛んでいた。
空気抵抗やなんかは……ということも気になったのだが、こうして飛んでみると、思いの外抵抗は感じられない。まるで私の身体が透き通り、実態を失い、すべてを透過している……そんな錯覚にすら襲われるほどである。
しかしそれでいて、空気の壁の存在は、ハッキリと感じられた。風に優しく包み込まれている感覚であった。
眼下には──と言っても、彼の忠告を守り、直視はしていないが──蒼く煌めきながら立ち並ぶ木々が、風に揺さぶられることで、見事な演奏が繰り広げている。遠くに見える町中では、ほとんどすべての家々が寝静まる中、時折車の明かりが、市街地の迷路の中を滑らかに這っている。そして、それら一切を、淀みない月明かりが照らしている。
筆舌し難いほどの、素晴らしい景色を堪能しながら、私は我を忘れて彼らと共に飛び回っていた。
…………
……
さて、どのくらい経ったのだろう。さっき彼は、"半刻ほど飛び回る"と言っていた。……いや、"半刻ほど漂う"だったかな。まあいい。
とにかく、そう言うからには、まだそれほど時間は経っていないのだろう。しかしながら、私の体感では、もう数時間も楽しんでいるように感じられた。
不意にあの子が声を上げた。
『あっちの方の空を見てー!だいたい、あそこらへんだよー!ぼくらの家ー!』
『おお、改めて見ると……良い屋敷ですね。あの明かりは……そうですか、そろそろご飯が出来上がるみたいですよ』
あの子の指す方向……の空を見ると、真っ暗な町中に、一件だけ、昼間のように明るい家が見える。一瞬、近所への迷惑を考慮したが、その実近隣の家々は、まるでそこにそんな家など無いかのように、どの家も寝静まっている様子だった。
『あそこに到着する辺りで、丁度半刻です。もう大丈夫でしょう。そろそろ、終わりの時間です。いずれ……そう、機会がありましたら、また空の散歩を致しましょう。……今度は、皆でちゃんと家から出発して、ね。
ライドさんも、お疲れ様でした。報せてくれてありがとうございました』
『ホントにびっくりしちゃったよーもー。ヨノワさんが居てくれてよかったー。けど、結局ぼくも楽しかったよ!』
『ふふ、そうですね。私も楽しめました。……さてと、あとはお待ちかねの"ご飯"の時間です。急いで戻りましょう』
『さんせー!』
彼らの言葉は、途中から聞き取ることが出来なかった。降下が始まると、私が下を見ないようにするためだろう、彼がその大きな手で、私の顔をしっかりと包みこんだためだ。彼の手は、とても暖かかった。
そして、そのまま、私の意識は遠退いていった。晴れやかな心の中で、そよ風のような幸福感が吹いていることを、強く感じ取りながら。
…………
……
『あ、起きたみたいだねー』
『おはようございます。朝になりましたよ』
「……ああ、おはよう、ヨノワ、ライド」
『どうされました?』
「いや、なんだか唐突に気分が良くてさ。昨日までモヤモヤしてたものが無くなったみたい……なんだけど……」
『あら、それは良かったねー』
『良い夢でも見られたのですか?』
「それが、思い出せなくてさ……朧気ながら残ってるものはあるんだけれどね」
『ほう?それはどのようなものです?』
『きかせてきかせてー』
「……変なこと言ったらゴメンね。あのさ、私、最近ゴルーグさんかシロデスナさんに何かした……とかって話、聞いてない?」
『いーや?そんな感じはしなかったよー。ヨノワさんはどう?』
『……?いえ、特には……何かされたのですか?』
「いや、私としては特にしてないハズなんだけど……なんだか、直視しちゃあいけないんじゃないかって気がしてさ」
『……!』
『……なるほど。
それはおかしな話ですね。詳細は私達にはわかりかねますが、おそらく、気にすることは無いでしょう。"地面を直視してはいけない"なんてルール、ここにはありませんからね』
「えっ!?……あ、いや、うん。そうだよね。そりゃあそうだ。……にしても、なんでだろう……?」
『さあ。夢というものは、不思議な世界ですからね。兎に角、気にすることはありません。さあ、お食事は出来ていますよ』
「……まあ、いいか。なんだか気にならなくなったし。すぐ行くよ」
『おっけー』
『お待ちしています』
「……あ、ちょっと待って」
『なにー?』
『どうしました?』
「あのさ。なんだか……君らも、何か良いことあった?」
『あー……うん、まあねー』
「へぇ。何、聞かせてもらえない?」
『そうですね……実は昨夜、我々にとってのご馳走が、手に入りましてね……?』
そう言って、普段と違う表情をする彼ら。その顔には見覚えがあった。
それは、彼らがここに来る前の、私と敵対関係にあったときに浮かべていた、あの冷酷で非情の表情だった。
そして私には、彼らの"ご馳走"が何なのか、不思議とよくわかるような気がした。背筋に走る悪寒の存在を、意識せずにはいられならなかった。