中日ドラゴンズの岩瀬仁紀選手が9月28日のナゴヤドームでの阪神タイガース戦で9回に登板し、前人未踏の通算1000試合登板を果たしました。
4-3と1点リードで迎えた9回。先頭で迎えた糸原選手にデッドボールを与えましたが、大山選手をセンターフライに打ち取って1アウト。次の同期入団の元チームメイト福留選手はファーストゴロに打ち取ると、最後は糸井選手をショートゴロで締め、節目の登板で今季3セーブ目、通算407セーブ目を飾るとともに、チームを勝利に導きました。
407セーブ目を挙げた岩瀬選手はお立ち台で「まさかここまでくるとは…。1点差で僕を出してくれたのは今年初めてだったので最後はしっかり頑張ろうと思いました」と、まさに男泣きでした。
愛知県西尾市で生まれた岩瀬選手は西尾東高時代から西三河では評判のピッチャーでした。しかし、1976年創立の歴史の浅い県立校であり、高校野球戦国地帯の愛知では甲子園へのハードルは高かいものでした。
高校時代の監督だった渡会芳久さんは、「目立つタイプではなかったが、野球に取り組む姿勢が素晴らしかった。こちらが黙っていても、よく練習するし、黙々と走っていた。私のほうから注意したり、怒った記憶はありません」という一方で、「打っても投げても岩瀬が中心。しかし、彼ひとりの力ではなかなか勝てない。ある試合、三塁に進んだ岩瀬は何と強引に本盗を試みた。アウトにこそなりましたが、そこまでしても勝ちたかったのでしょう。ピッチャーとしては三年夏の県大会二回戦でノーヒットノーランを達成しています。バッターがバスターで揺さぶるなど、いろいろと対策を練ってきても、まったく相手にしませんでした」と語っています。
高校卒業後は地元の愛知大へ。東京の強豪校からの誘いもあったそうですが、ひとり息子ということもあって地元の大学を選んだそうです。
大学ではピッチングも良かったですが、バッティングはもっと目立っていました。入部後は外野のレギュラーになち、二年の夏には外野手として日米大学野球の日本代表メンバーに選出され、三年秋には中南米遠征のメンバーにも加わりました。同世代の左バッターには稲葉篤紀さん(元:北海道日本ハムファイターズ)や読売ジャイアンツの高橋由伸監督らがいます。
大学時代の桜井智章監督(現:総監督)は、「打撃は引っ張り専門で初球からどんどん振る。ボールを待つなんてとんでもないというスタイル。当時は相手から警戒され、ボール球を振らされることが多かった」と語っています。
愛知では向かうところ敵なしの強打者でしたが、中南米遠征から帰国した直後に、「バッターでは勝てません。ピッチャーをやらせてください」と桜井監督に告げたそうです。「岩瀬本人もプロ志望でしたが、代表で集まってきた選手のバッティングを見て、〝こういう人間がプロに行くんだ〟と分かったんじゃないでしょうか。それからですよ、バッティングのスタイルが変わったのは。ボール球を振らず、逆らわないバッティングをするようになりました。外野を守っていても、単に強肩を見せつけるだけでなく、捕球しやすいボールを返すようになりました。一流選手と一緒に行動したことで野球観が大きく変わったんだろうと思います」と当時を語っています。
三年春には愛知学院大戦で1試合3本のホームランを記録していますが、1本目がレフト、2本目がセンター、3本目がライトと広角に打ち分ける技術も習得していました。また、四年時はエースで四番。大学通算124安打は愛知大学リーグ史上2位でリーグ記録に、あと1本届かなかったというくら、バッティングセンスにも優れています。
「記録を塗り替えていたら、そのままバッターで勝負していたかもしれません」とのことですが、記録を破れなかったことが、結果的には幸いしました。岩瀬選手はバットを置き、以後はピッチャー一本で行く覚悟を固めます。
大学卒業後に、これまた地元のNTT東海へ進みますが、ここで岩瀬選手は森昌彦さんというアトランタ五輪にも出場した社会人球界を代表する好投手と運命的な出会いを果たします。
森さんの武器はバッターをして「振りに行ったら急に曲がる」と言わしめた高速スライダー。この伝家の宝刀を森さんは後輩に伝授したのです。「当時の岩瀬はスラーブみたいな曲がりの大きな変化球を投げていました。しかし本当の持ち味はナチュラルにスライドするボール。バッターからすれば大きな変化より、手元で小さく変化するボールの方が打ちにくい。そこで投げ方をアドバイスしたんです。実は彼はテイクバックが独特なんです。腕が頭の後ろにきて、そこからサイド気味に出てくる。これはスライダーに適した投げ方なんです。それでちょっと〝縫い目をズラして投げてみろ〟と。何球か投げているうちにシュッ、シュッとボールが切れてきた。このボールをマスターするには、なるべく前でボールを放さなければならない。まずは軸足でしっかり立ち、次に体重移動。彼の場合、前の肩が早く開くクセがあった。そこでグラブを絞って肩が開かないようにしました。こうすることで自ずと腕も振れてきた。社会人2年目には、ほとんどあのスライダーは打たれていないはずです」とのことです。
これが、後年、プロでのウイニングショットとなった「バッターの手元で加速する」と言われるスライダーの誕生です。
20年目の今季は開幕以降ずっと一軍登録から外れることなく、46試合に登板し、前人未到の通算407セーブ、空前絶後の1000試合登板を記録し、球史に燦然と輝く選手でだというのは事実でしょう。まさに“鉄腕”という二つ名がふさわしいものです。
クローザーは、チームの仲間たちが築いたリードを守るのが仕事です。例えないようのないプレッシャーがあると思います。しかし、岩瀬選手は、「正直、ストレス解消なんてないですよ。そもそもストレス解消は無理だと思っています。シーズンが終わるまでは、とにかく我慢の時期。ストレスに慣れるしかありません」と言っています。
「とにかく我慢」を1000回もこなしてきたのです。でも、「打たれたときのダメージは、抑えたときの何十倍」「1試合抑えに失敗しただけで、それまでのことがすべて打ち消されてしまうような気分になる」と岩瀬選手は語っています。それでも失敗にとことん正面切って向き合ってきたのです。
「全部が全部抑えられるわけではない。やられたら、次が一番大事になる。切り替え方は人それぞれです。ポジティブな考え方の人もいれば、僕みたいにネガティブな考え方の人もいる(笑)。次の試合に自分がどういう形で入ればうまくいくのか、早く覚えてほしい」
「理想は勝って終わること。結果がすべて。2点差で勝っていれば、1点で相手を抑えればいい。なによりもチームの勝利が大切。それが抑えというポジションなんです」
まだ、公式的には引退発表していない岩瀬選手には、1001試合目の登板を期待しています。チケットが取れなかった、この3日間は勇姿をTVで見届けます。