イスラエルによるパレスチナ・ガザ地区への攻撃が1ヶ月を超えた2023年11月14日。国境なき医師団(MSF)の海外派遣スタッフと現地スタッフのチームがエジプトからガザ入り。
そのチームのなかに、MSF日本会長で救急医・麻酔科医の中嶋優子さんがいました。ちょうど私が聞いたNHKのラジオニュースの特集で中嶋優子さんが出演していました。
2023年11月30日時点でガザ保健当局によると、ガザ地区で亡くなった方は約1万8千人を超えています。
中嶋優子さんはガザ入りのあと、南部最大の都市ハンユニスにある一番大きいナセル病院で患者の治療や麻酔の管理などに加えて、現地研修医らのサポートを行っていました。
このときはイスラエルの攻撃は北部中心で南部は比較的空爆の被害が少ない状態。それでも次第に南部にも戦闘が拡大し、夕方や夜になると爆撃音が鳴り始め、イスラエルとパレスチナのどちらかわからないドローンの音も常に聞こえていました。
北部では多くの病院が機能しておらず、ナセル病院にはそういった病院から医師らがやってきて、ボランティアで医療活動をしているという。救急室で働く研修医も多く、研修医へのアドバイスもしている。
11月24日にイスラエルとパレスチナは戦闘停止期間に入った。
停戦によって新たな負傷者は止まったものの、北部からも多くの患者が搬送され、
「北部で継続した治療を受けられず、傷口が感染して、全身に広がってしまった患者もたくさんいました」「ひどい骨折や熱傷などの外傷は継続的な治療が必要です。感染箇所を削り取り、全身麻酔をかけ、綺麗にしてガーゼを交換するなどの処置が必要な患者もいますので、そういった治療にあたりました」
と戦闘期間中に傷を負った患者の治療に追われた。
また、医療物資の搬入はあったものの足りないものものもあり、医療体制が崩壊したなかで工夫して治療をした。
たとえば、11月30日には手術中に停電が発生したため、携帯電話のライトで照らして手術を続けることもあった。
物資以外にもベッドも不足しており、現地活動責任者らがテントを調達したり、使っていないクリニックを見つけてきたりして、受け入れ場所を広げてきた。
一方で、
「あまりに人が多いために一人一人に目が行き渡らず、ガーゼ交換などの頻度は少なくなってしまいます。北部から来た患者の中には、長期間まったく処置が受けられていない人もいました。継続性の観点から言えば、患者さんは十分な医療が受けられてない」
そのうえ、常用薬が手に入らないため、
「高血圧や糖尿病、珍しい血液疾患、透析など命に関わる医療が中断されてしまい、亡くなったり、重症化したりする患者さんを3週間でたくさん見てきました」
というのが現実とのこと。
12月1日にはイスラエルは南部を含めて攻撃を再開。
ナセル病院の近くでも空爆があり、「ギリギリの状態で医療を続けていますが南部も安全ではなくなっています。いよいよ危なくなった時には、再び全員で別の場所へ避難しなければいけないと思います」と病院の現地スタッフが戦々恐々としているのが感じられると言う。
それでも、こんな状況のなかであっても、
「ガザの人たちは誰もが、家を失う、家族や親戚や友人を亡くすなどの経験をしています。そういった中でも、現地の医師たちは休みを返上してボランティアで明るく働いていて、とても強いな、すごい精神力だなと感じます」
「患者さんの中には、手足を切断しなければいけない10代や20代の若者もいますが、前向きに受け入れているように感じます。その理由を『他に選択肢がないから、気持ちの持ちようを変えるしかないんだ』と言っていたのが印象的でした」
「子どもたちもとても明るく、人懐っこい。空爆で搬送されてきた患者さんが全員子どもと女性だったこともあり、本当にひどいと思いました」「助かって今日を生き延びても、2、3日後に亡くなってしまう方や、感染症などで何週間も苦しんで亡くなる方はすごく多いです。戦争をしないということに比べて、医療ができることはすごく実は小さいんです。そのことに、無力感を抱くことはあります」
とガザの人たちの強さを感じる一方で、戦争の犠牲と比較して医療者ができることの小ささに、無力感を感じることもあるという。
それでもガザの人たちが喜んでくれることが支えだそうです。
「色々な国のメンバーからなる多国籍チームがガザに来たことを『わざわざ安全な国から来てくれた』とガザの人たちはありがたがってくれます。ここに来たこと自体が希望になるのであれば、それだけでいいと思っています」
また、日本出身だと伝えるとこう言われることがあるそうです。
「『第二次世界大戦の時に、日本も同じだったでしょう?家族ではない隣の人たちと助け合い、少ない食事を分け合い、狭いところで一緒に生活したんでしょう?お互いを助け合う共助で乗り越えてきたのは同じだよね』と何度か言われました。私はその時代を直接は知らない世代ですが、そうだったんだろうなと思っています」
ほかにも感染症専門医の鵜川竜也さんは2023年4月から11月までガザ地区に派遣されていた。
北部のアル・アウダ病院で医療支援に従事していたものの戦闘開始後に避難。空爆が続くなかで命からがら逃げるも、水や食料に困る日々。野宿状態の避難生活は26日間続き、11月1日にガザから退避。日本へ帰国。
アル・アウダ病院は11月21日に攻撃を受け、一緒に働いていた医師らが亡くなった。
「現地の悲惨な状況を聞いていましたが、一緒に働いていた同僚が亡くなるという出来事は、戦争の悲惨さを痛感するようでした。2人とも医師として、戦争が起こっても患者さんのそばを離れず治療にあたっていました」
一緒に働いていたときにはいつも、「困ったことはあるか」「何かあったら俺がなんとかするから」と優しく声を掛けてくれていたという。
ひとりの医師は奥さんと3人の子どもを残して亡くなり、もうひとりは婚約したばかりで、近く結婚する予定だった。
白根麻衣子さんはMSFの人事マネージャーとして2023年5~11月、ガザ地区にある支援先の病院への人材配置などを担当。
「ガザ地区は、18歳未満が人口の半分を占める場所です。いつも子どもたちが笑顔で走り回っていて、外国人の私たちを見ると覚えたての英語で話しかけてきてくれるような温かい場所でした」「10月7日までは、そんなたわいもない日常がありました。しかし、戦闘開始によってそんな“日常”が一瞬にして崩れてしまいました」
白根さんも空爆が続くなか、避難。
「残っている食料のカロリーを数え、避難していた仲間で分けると何日持つか数えて食べた」
「いま起こっていることは無差別な暴力。傷つくのは住民たちで、何も罪がない人たちが家を追い出されています。ガザで出会った子どもたちの顔を思い出すと今でも胸が痛くなる」
と話しています。
国際的な条約のジュネーブ条約(国際人道法)では医療施設、医療従事者や医療用車両などへの攻撃を禁止しています。戦争にもルールがあります。
パレスチナでもイスラエルでもウクライナでも、そしてほかの地域でも何の罪のない人々が犠牲になっています。
遠く離れて日本で暮らす私たちにできること。
偽善と言われるかも知れませんが、この無差別な暴力を止めるためにも、諦めずに関心を持ち続けることが大事なのではないかと思います。そして、一人ひとりが声を上げ続けていくこと。
戦争は間違っていると、胸を張って言える日本人でいること。
ひとりは小さな声かも知れませんが、日本人全員が声を合わせていくことでしょうね。
キリスト生誕の地とされるヨルダン川西岸のベツレヘムでは毎年世界各地から信者が訪れ、大きなクリスマスツリーが飾られて、イルミネーションも街中でともっていました。
しかし、2023年はそういったクリスマスらしさは一切なくなったとニュースで報道されていました。
「世界中がツリーやイルミネーションで祝う中、これがパレスチナのクリスマスです」
本日も、拙文最後までお読みいただきありがとうございます。
皆さまにとって、今日という日が昨日よりも特別ないい日でありますようにお祈りいたしております。
また、明日、ここで、お会いしましょう。それではごめんください。
そのチームのなかに、MSF日本会長で救急医・麻酔科医の中嶋優子さんがいました。ちょうど私が聞いたNHKのラジオニュースの特集で中嶋優子さんが出演していました。
2023年11月30日時点でガザ保健当局によると、ガザ地区で亡くなった方は約1万8千人を超えています。
中嶋優子さんはガザ入りのあと、南部最大の都市ハンユニスにある一番大きいナセル病院で患者の治療や麻酔の管理などに加えて、現地研修医らのサポートを行っていました。
このときはイスラエルの攻撃は北部中心で南部は比較的空爆の被害が少ない状態。それでも次第に南部にも戦闘が拡大し、夕方や夜になると爆撃音が鳴り始め、イスラエルとパレスチナのどちらかわからないドローンの音も常に聞こえていました。
北部では多くの病院が機能しておらず、ナセル病院にはそういった病院から医師らがやってきて、ボランティアで医療活動をしているという。救急室で働く研修医も多く、研修医へのアドバイスもしている。
11月24日にイスラエルとパレスチナは戦闘停止期間に入った。
停戦によって新たな負傷者は止まったものの、北部からも多くの患者が搬送され、
「北部で継続した治療を受けられず、傷口が感染して、全身に広がってしまった患者もたくさんいました」「ひどい骨折や熱傷などの外傷は継続的な治療が必要です。感染箇所を削り取り、全身麻酔をかけ、綺麗にしてガーゼを交換するなどの処置が必要な患者もいますので、そういった治療にあたりました」
と戦闘期間中に傷を負った患者の治療に追われた。
また、医療物資の搬入はあったものの足りないものものもあり、医療体制が崩壊したなかで工夫して治療をした。
たとえば、11月30日には手術中に停電が発生したため、携帯電話のライトで照らして手術を続けることもあった。
物資以外にもベッドも不足しており、現地活動責任者らがテントを調達したり、使っていないクリニックを見つけてきたりして、受け入れ場所を広げてきた。
一方で、
「あまりに人が多いために一人一人に目が行き渡らず、ガーゼ交換などの頻度は少なくなってしまいます。北部から来た患者の中には、長期間まったく処置が受けられていない人もいました。継続性の観点から言えば、患者さんは十分な医療が受けられてない」
そのうえ、常用薬が手に入らないため、
「高血圧や糖尿病、珍しい血液疾患、透析など命に関わる医療が中断されてしまい、亡くなったり、重症化したりする患者さんを3週間でたくさん見てきました」
というのが現実とのこと。
12月1日にはイスラエルは南部を含めて攻撃を再開。
ナセル病院の近くでも空爆があり、「ギリギリの状態で医療を続けていますが南部も安全ではなくなっています。いよいよ危なくなった時には、再び全員で別の場所へ避難しなければいけないと思います」と病院の現地スタッフが戦々恐々としているのが感じられると言う。
それでも、こんな状況のなかであっても、
「ガザの人たちは誰もが、家を失う、家族や親戚や友人を亡くすなどの経験をしています。そういった中でも、現地の医師たちは休みを返上してボランティアで明るく働いていて、とても強いな、すごい精神力だなと感じます」
「患者さんの中には、手足を切断しなければいけない10代や20代の若者もいますが、前向きに受け入れているように感じます。その理由を『他に選択肢がないから、気持ちの持ちようを変えるしかないんだ』と言っていたのが印象的でした」
「子どもたちもとても明るく、人懐っこい。空爆で搬送されてきた患者さんが全員子どもと女性だったこともあり、本当にひどいと思いました」「助かって今日を生き延びても、2、3日後に亡くなってしまう方や、感染症などで何週間も苦しんで亡くなる方はすごく多いです。戦争をしないということに比べて、医療ができることはすごく実は小さいんです。そのことに、無力感を抱くことはあります」
とガザの人たちの強さを感じる一方で、戦争の犠牲と比較して医療者ができることの小ささに、無力感を感じることもあるという。
それでもガザの人たちが喜んでくれることが支えだそうです。
「色々な国のメンバーからなる多国籍チームがガザに来たことを『わざわざ安全な国から来てくれた』とガザの人たちはありがたがってくれます。ここに来たこと自体が希望になるのであれば、それだけでいいと思っています」
また、日本出身だと伝えるとこう言われることがあるそうです。
「『第二次世界大戦の時に、日本も同じだったでしょう?家族ではない隣の人たちと助け合い、少ない食事を分け合い、狭いところで一緒に生活したんでしょう?お互いを助け合う共助で乗り越えてきたのは同じだよね』と何度か言われました。私はその時代を直接は知らない世代ですが、そうだったんだろうなと思っています」
ほかにも感染症専門医の鵜川竜也さんは2023年4月から11月までガザ地区に派遣されていた。
北部のアル・アウダ病院で医療支援に従事していたものの戦闘開始後に避難。空爆が続くなかで命からがら逃げるも、水や食料に困る日々。野宿状態の避難生活は26日間続き、11月1日にガザから退避。日本へ帰国。
アル・アウダ病院は11月21日に攻撃を受け、一緒に働いていた医師らが亡くなった。
「現地の悲惨な状況を聞いていましたが、一緒に働いていた同僚が亡くなるという出来事は、戦争の悲惨さを痛感するようでした。2人とも医師として、戦争が起こっても患者さんのそばを離れず治療にあたっていました」
一緒に働いていたときにはいつも、「困ったことはあるか」「何かあったら俺がなんとかするから」と優しく声を掛けてくれていたという。
ひとりの医師は奥さんと3人の子どもを残して亡くなり、もうひとりは婚約したばかりで、近く結婚する予定だった。
白根麻衣子さんはMSFの人事マネージャーとして2023年5~11月、ガザ地区にある支援先の病院への人材配置などを担当。
「ガザ地区は、18歳未満が人口の半分を占める場所です。いつも子どもたちが笑顔で走り回っていて、外国人の私たちを見ると覚えたての英語で話しかけてきてくれるような温かい場所でした」「10月7日までは、そんなたわいもない日常がありました。しかし、戦闘開始によってそんな“日常”が一瞬にして崩れてしまいました」
白根さんも空爆が続くなか、避難。
「残っている食料のカロリーを数え、避難していた仲間で分けると何日持つか数えて食べた」
「いま起こっていることは無差別な暴力。傷つくのは住民たちで、何も罪がない人たちが家を追い出されています。ガザで出会った子どもたちの顔を思い出すと今でも胸が痛くなる」
と話しています。
国際的な条約のジュネーブ条約(国際人道法)では医療施設、医療従事者や医療用車両などへの攻撃を禁止しています。戦争にもルールがあります。
パレスチナでもイスラエルでもウクライナでも、そしてほかの地域でも何の罪のない人々が犠牲になっています。
遠く離れて日本で暮らす私たちにできること。
偽善と言われるかも知れませんが、この無差別な暴力を止めるためにも、諦めずに関心を持ち続けることが大事なのではないかと思います。そして、一人ひとりが声を上げ続けていくこと。
戦争は間違っていると、胸を張って言える日本人でいること。
ひとりは小さな声かも知れませんが、日本人全員が声を合わせていくことでしょうね。
キリスト生誕の地とされるヨルダン川西岸のベツレヘムでは毎年世界各地から信者が訪れ、大きなクリスマスツリーが飾られて、イルミネーションも街中でともっていました。
しかし、2023年はそういったクリスマスらしさは一切なくなったとニュースで報道されていました。
「世界中がツリーやイルミネーションで祝う中、これがパレスチナのクリスマスです」
本日も、拙文最後までお読みいただきありがとうございます。
皆さまにとって、今日という日が昨日よりも特別ないい日でありますようにお祈りいたしております。
また、明日、ここで、お会いしましょう。それではごめんください。