「使命は、とにかくチームを強くすること」
2011年以降、10年も遠ざかっているリーグ優勝を目指す我らの中日ドラゴンズに、待望といよりも最後の切り札となる立浪和義新監督のもと、秋季キャンプが始まりました。
2021年10月29日の就任会見で立浪監督は、「私に与えられた使命は、とにかくチームを強くすること」といい切りました。
現役引退から監督就任まで約12年。干支は一周し、引退の年に生まれた赤ちゃんは小学六年生。夏季オリンピックは3回終わっており、私も12歳年齢を重ねた年月です(当然といえば当然)。
これだけの時間を空けての監督就任ですが、もしかすると今回の監督就任もなかったかもしれないという。
「もう(中日からの要請は)ないかもしれないな」と思いかけていた2018年秋のことだそうです。
立浪さんへ、思いがけない方から連絡があったとのことです。それ相手というのが、読売ジャイアンツの監督に復帰が決まった原辰徳さんだそうです。立浪さんへのコーチの就任要請でした。
「指導者としてグラウンドに立つ夢がかなうのは、あるいはこれが最後かもしれない」と考え、一方で、「中日にとって巨人は永遠の宿敵。そのユニホームに袖を通すことが、自分にできるのか」と、立浪さんは悩んだそうです。
しかし、迷った結果、丁重に断わりを入れます。ジャイアンツのユニホーム姿を、ドラゴンズファンの前に見せることはやはりできなかったそうです。
「原さんには気に掛けていただいた。一度はやってみたい。そう思ったのは間違いありません」
それには、原さんが2度目の監督時に退任が決まったあとの、2003年10月7日での阪神甲子園球場での試合後のセレモニーにおいて、当時阪神タイガースの監督だった星野仙一さんが原さんへ花束を渡し、原さんを抱擁した場面があります。このとき、星野さんが原さんにかけた言葉が、「くじけるな。もう一度、勉強して戻ってこい」でした。
この当時いろいろとニュースで話題になっていましたが、退任は表向きの話であり、実質的な解任でした。また、当時のオーナーは、「読売グループ内の人事異動」だといい、チームにいろいろと貢献してきた野球人としてのプライドを傷つけたとされていました。星野さんは、これをおもんぱかった言葉だった思われています。
そして、原さんは3度目の監督就任にあたり、星野さんから受けた恩を、どこかで返そうとしているのではないかと考えられたようです。
そもそも、立浪さんが原さんからの招へいに対して心が揺れたのは、2013年10月にあるようです。
立浪さんは引退して4年たち、解説者として活躍していましたが、この直前にドラゴンズの新監督に谷繁元信さんが就任することが発表されました。立浪さんからすれば祝福したい気持ちはあるものの、指導者になる準備をしていたのですが、「これがドラゴンズの答え」だと受け止めたそうです。
そして、仕事の拠点をドラゴンズの本拠地である名古屋から東京に移すことを決意していたそうです。その意味は、ドラゴンズと距離を置くのというものでした。
しかし、「名古屋にはあなたを応援してくださる人がいるのでしょう?その人たちのためにも、あなたは名古屋で頑張るべきです」と奥さんから話され、立浪さんは名古屋にとどまることにしたそうです。「女房が僕のやることに反対したのは、これが初めてかもしれません」とのことです。
それは、かつて星野さんも同じことをいっていたそうです。1度目の監督を終え、評論家生活を送っていたとき、星野さんは東京に出ようとしました。それを止めたのは、星野さんの奥さんでした。「あなたを育ててくれたのは名古屋の街、人でしょ。そのおかげで今があるのだから、私は行きません」とのことです。
星野さんの教え子の立浪さん。
12年を耐え抜いて、ようやくドラゴンズのユニフォームにそでをとおします。
そして、就任最初の公式戦は、原さん率いるジャイアンツと決まりました。チームを立て直し、ジャイアンツを倒すことによって、星野さん、原さんへ、ある意味恩返しができるのではないでしょうか。
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