時代は幕末です。
幕末とは江戸時代末期のことで、一般的には1853年(嘉永6年)の黒船来航から、徳川幕府による政治が終わった1868年(慶応4年)までの約15年間を意味します。約260年続いた江戸幕府が倒され、国内の事情が大きく動いた時期です。今年はその徳川幕府が終焉を迎え、明治維新が起こった年からちょうど150年目となります。
また、明治時代は、元号が明治に改められた1868年(明治元年)から1912年(明治45年)までを意味します。この時期に日本は海外の法律や技術、教育、文化などを積極的に取り入れ、欧米列強に負けないよう、国を豊かにして強い軍隊を持つことに力を入れました。この時代、すでに欧米諸国は中国大陸や朝鮮半島へ進出し、貿易をしたり、軍事力によって支配したりしていました。日本はこれらの国々に対抗しようとします。そして、日清戦争、日露戦争という二つの大きな戦争を起こすことになりました。
このように、幕末から明治時代にかけて、日本という国は180度の大転換期を迎えました。
江戸時代は徳川家康さんが開いた江戸幕府がありましたが、京都在住の朝廷(天皇)から日本の政治を頼まれる形で、徳川家の将軍が国の政治を行ってきました。つまり将軍は今でいうところの総理大臣のようなものです。しかし、選挙制度はありませんでしたので。世襲と言って、代々、徳川家の者から血筋などで選ばれてきています。
そんな江戸幕府は鎖国の政策を取り、外国には「日本に来ちゃダメ」と言い、交流をしませんでした。ただ、世界で唯一交流したオランダとは長崎の出島への出入りを認めています。そのために、日本は大きな発展をすることはありませんでした。
今回は「ペリーが浦賀にやって来た」と題して、嘉永年間(1853~1855年)についてお話ししましょう。
なお、くろすけ史観が勝手に入っていますので、正しい歴史を知りたい方は、もう一度学校でお勉強いたしましょう。
1853 (嘉永6)年、米国使節としてマシュー・ペリーさんが、「日本ノミナサン、開国シテクダサ~イ」と4隻の軍艦を率い、空砲を打ち鳴らしながら、浦賀(神奈川県)沖に現れました。ペリーさんは、中国との貿易船や捕鯨船が、日本の港で燃料や水、食料などを補給できるように求めのことでした。
これは19世紀以降、世界中に産業革命による資本主義が広がり、優れた工業力や軍事力を持つ欧米諸国が、競ってアジアとの貿易を開始したためです。英国は工業製品などを植民地のインドに輸出し、インド産の麻薬アヘンを清(中国)へ密輸して清から茶や絹を得ていました(三角貿易)。清がアヘンを取り締まると、1840年に英国は軍艦を送って攻撃して屈服させました。これがアヘン戦争です。
どうでもいいのですが、私は中国のアヘン戦争博物館(広東省東莞市)へ行ったことがあります。実際に戦争があった場所にあり、小高い丘の上にはアヘン戦争で使われた大砲陣地跡があり、虎門大橋を見上げる広大な公園と博物館の建物があります。博物館は、当時のアヘン戦争に関する展示がありますが、麻薬などの注意を喚起する展示は生々しく、割愛するのが良いと思います。
さて、このアヘン戦争と同じような強い態度で、ペリーさんも日本へ条約締結を迫ります。驚いた幕府はとりあえず引き伸ばしを模索するも、日本の手の内を予習済みで「1年後ニマタ来マ~ス!HAHAHA!」と言っておきながら半年後にやって来るというフェイントや、今に続く伝統の砲艦外交をかましたりしつつで終始交渉を有利に進め、1854(嘉永7)年に誰がどう見てもアンフェアな日米和親条約を締結し、米国のために下田(静岡県)、函館(北海道)の2港を開きました。
この間に12代将軍家慶さんが暑気あたりで亡くなり、のちに第153回芥川龍之介賞受賞する又吉直樹さん・・・もとい、カステラや吹かし芋を作るのが趣味の家定さんが13代将軍となりますが、元々悪かった体調が将軍就任以後はさらに悪化し、流石に不安に思った老中トップの阿部ちゃんこと阿部正弘(藤木直人さん・・・昔は慶喜さんに仕えていました)さんや有力諸侯たちは「早めに次の将軍決めておこうぜ」とグループ結成、やっぱり一橋家の慶喜さんを推薦します。
しかし、慶喜さんの出身藩が水戸藩である事にこだわる冬彦(佐野史郎)さんこと井伊直弼さんはじめ譜代大名や大奥は紀州藩の慶福(徳川家茂さんの紀州藩主時代の名)さんこそが血筋的に継ぐに相応しいと主張、こちらもグループを結成します。
それぞれ一橋派、南紀派と称され、後継を巡って争います。
そんなこんなで幕末の、ええじゃないか、ええじゃないかのドンチャン騒ぎが始まっていくのであります。