「日本一を目標に掲げてきましたが、宮崎県民のみなさんの期待に応えられずに本当に悔しい......」
タイブレークの末、東海大に敗れた宮崎産業経営大の主将・大幡正敏選手の目が潤んでいたそうです。
宮崎産業経営大は、1987年に設置された宮崎県宮崎市に本部を置く日本の私立大学です。前身は1923年に設置された日州高等簿記学校、1987年に宮崎産業経営大となりました。特色として、教職課程が充実しており、地元の公立学校・私立学校に多くの教員を輩出しており、面倒見の良さや地域貢献が高く評価されている大学です。
第68回全日本大学野球選手権大会。6月9日の開会式で各チームの主将が抱負を披露し、宮崎産業経営大の主将・大幡選手は、「日本一、獲ります。以上です」と言いました。
これまで最多優勝を誇る法政大や今大会優勝の明治大の東京六大学野球連盟が25回の優勝を飾り、駒沢大や東洋大などの東都大学野球連盟も24回の優勝を果たすなど、この2大連盟が圧倒的に強い大会です。
宮崎産業経営大が所属する九州地区野球連盟の優勝は、2003年大会での日本文理大の1回のみです。しかも、宮崎産業経済大は初出場の昨年はベスト8に進み、九州地区大学野球連盟南部九州代表で初出場(宮崎県勢としても)ながら準々決勝に進出し、話題を集めました。私立大学としては珍しく野球推薦や特待生制度はなく、選手のほとんどは宮崎を中心にした南部九州出身で、グラウンドも鵬翔高の部活動との共用のため使う日時が決められており、ハンデを乗り越えながらの快進撃でした。
今回が2回目の出場となるチームにも関わらず、主将から飛び出した「日本一宣言」に、三輪正和監督は「もっと現実的なことを言え」と苦笑いしたそうです。
環太平洋大との初戦。ドラフト候補の右腕・杉尾剛史選手が6安打9奪三振で2失点完投。三輪監督が「雲の上のチーム」と語っていた東海大との二回戦は、1-1の延長タイブレークにもつれ、最後は連投の杉尾選手が11回裏ににサヨナラタイムリーヒットを打たれたものの、検討した試合でした。
だからこそ、大幡主将は悔しかったと思われますが、三輪監督は、「そこ(日本一)までのチームじゃない。ですが、思った以上に成長してくれました。勝たせてやれなかったのは、監督の力不足です」と言っています。
宮崎産業経営大硬式野球部の創部は、開学した1987年と同時であり、三輪監督も同時に就任しました。ちなみに三輪監督は、宮崎・日向学院高二年の1980年に甲子園に出場し、立教大時代は元・ヤクルトスワローズの長嶋一茂さんの二学年上で、「四番・長嶋」の次を打つ五番・センターとして活躍しました。
大学卒業後は指導者を志し、大学に残り教職課程を履修し、1年後、学校法人・大淀学園が創設する宮崎産業経営大の野球部監督として声がかかり、同法人は、鵬翔高(前・宮崎中央高)も運営しているおり、「いずれは高校野球の指導を......」と考えていた三輪監督は引き受けることにしました。
学校も野球部も、出来たばかりであり、「いい体しとるねぇ。野球やってみん?」と、キャンパスを行き交う学生たちに片っ端から声をかけることが出発でした。
そして、なんと集まったのは9人。グラウンドは系列の鵬翔高との共用で、平日は週に2日、土日は午前中しか使えず、それ以外は駐車場で素振りをしたり、トレーニングで汗を流すぐらいでした。練習試合では、ほとんどがコールドゲームだったそうです。
それでも1期生の9人で初出場した秋の九州地区選手権大会(当時は福岡から沖縄までの28代表によるトーナメント戦)では、初戦敗退ながら西日本工業大に0-1と善戦。1期生が四年になった1990年にはベスト4まで進出し、高校野球の指導者を夢見ていた三輪監督は「すっかり大学野球にのめり込みました」と語っています。
その後も、春先に宮崎でキャンプを張る強豪大と練習試合を行い、大型免許を取得した三輪監督がバスを運転し、積極的に遠征に出かけるなどして、着実に力をつけていきました。
創部20年目となった2007年春には初めて準優勝し、翌年秋も準優勝するなど、上位の常連となりましたが、日本文理大や西日本工業大などの強豪がいる一発勝負のトーナメントでの全国への道ははるかに遠くにありました。
しかし、2016年に大学選手権の出場枠が1つ増え、九州地区は北部(福岡、佐賀、長崎、大分)と南部(熊本、宮崎、鹿児島、沖縄)の両ブロックから代表を送り出すことになり、昨年、宮崎産業経営大は各県の1位校がリーグ戦で争う南部を制して、大学選手権に宮崎県から初めての出場を果たしました。そして、その全国大会でもベスト8入りし、今年は連続出場を果たしています。
三輪監督は「やはり、南部から1代表になったのは大きいですよ」と振り返り、また、「杉尾たちの世代が入ってきたことですね」と言います。
特待制度は創部以来、採用していませんが、もともと大学自体が地元での就職に強いこともあり、「産経大で野球をやりたい」と言う選手が増えてきたそうです。杉尾選手と大幡選手のバッテリーも同じで、大幡選手は系列の鵬翔高出身で、宮崎産業経営大の練習環境を知っている大幡選手は、最初は他県の大学を目指していましたが、「ただ杉尾が『宮崎で一緒に野球をやってくれないか?』と。小・中・高校とずっとライバルでしたし、杉尾がいれば全国大会も夢じゃないと思って......。それで産経大に進みました」と言っています。
グラウンドはまだ高校との共用で、また、授業があるために練習開始時に全員が揃いません。それでも、33人が入部した大幡選手たちの学年は、早朝7時半集合の自主練習に取り組むことで、環境のハンデを補ってきています。それと、杉尾選手というプロ注目の好投手の存在、そして昨年の全国大会の経験も大きかったそうです。
三輪監督は、「環境も、人材も、強豪にはかないません。でも、弱いなら弱いなりの戦い方があります。たとえばウチは、打順に関係なく全員がバントをするし、全力疾走を徹底する。そもそも、バッティング投手をしてくれる仲間のことを考えたら、凡打したからといってたらたらとは走れません。9人、ベンチ入りの25人......いや、部員全員で戦っているんです」と語っています。
9人でスタートした宮崎産業大硬式野球部は、いまや部員は103人になったそうです。
着実に一歩ずつ頂点を目指し、悲願の全国大会初制覇へ宮崎産業大硬式野球部の挑戦は続きます。