神奈川県央北部に位置する相模原市。丹沢山系が望め、周囲には田畑が広がる場所に県立相模田名高校があります。1897年4月に創立されました。創立以来部活動が盛んで、特に硬式野球部、陸上競技部は毎年県大会でも好成績を残しています。
主な出身者にお笑いユニット・バナナマンの日村勇紀さんがいます。
現在、野球部を率いているのは平林明徳監督です。監督就任4年目を迎えます。平林監督は1968年生まれのKK世代であり、長野県南安曇農高校で野球部に所属しており、中央大学を経て外務省に行政職事務官として入省したキャリアを持ちます。外務省ではアジア局でカンボジア和平協議などの案件を支えたそうです。
野球は趣味として外務省のチームでプレーし、省庁大会などに出ていたくらいだったそうですが、ある時、東京・新橋にある焼肉屋さんに食事に行ったり、そこのチームと試合をすることで人生が変わったそうです。その焼肉屋さんを営んでいたのが大洋ホエールズ、阪神タイガースなどで選手、コーチとして活躍した長崎慶一さんでした。
ある時、長崎さんが「今度、シニアチームの監督になるので、コーチにならないか」と声をかけてくれたのがきっかけで、その日から足立シニアのコーチになっていたそうです。そこで「高校野球の指導者になりたい」という夢が蘇って来たそうです。
しかし、指導者の実績はゼロであり、声をかけられて監督になれる道もゼロ。ならばと教師を目指し、中央大の聴講と日大の通信課程で教職を取りました。
さらに、野球の勉強を積むため、知人の勧めで当時日大野球部の鈴木博識監督(現鹿島学園)の元へ出向きました。当時の日大には松坂大輔世代が多く在籍しており、館山(現東京ヤクルトスワローズ)、本橋(元PL学園高)、井上(元明徳義塾高)など有力な選手が在籍しており、井上さんには、明徳義塾高の馬淵監督と会わせてもらったりしたそうです。
また、元PL学園高の中村順司監督(現名古屋商科大総監督)の息子さんも在籍していたため、その中村さんのもとを訪ねたりしたそうです。
そして、2007年(39歳)の時に岐阜県教員採用試験に受かり、翌年、岐阜・高山工業高校へ赴任しましたが、野球部には既に監督がいたので高校野球には携われず、サッカー部の顧問などをしていましたが、「ここでは監督になれそうもない」と神奈川県教員採用試験を改めて受けなおしました。それほど、高校野球の監督に魅力を感じていたそうです。
「監督になってみて初めて判ったことがあるんです。それは(仕事でも野球でも)現場が最良の教場(教室)だなということ」
教師になる前にも、いろんなことを教えられたが、所詮、机上での事であって、実際にグラウンドでノックバットを振っていないし、生徒と対話もしていない。ましてや、現場ではいろんなトラブルや壁があります。
外務省時代は、決着すると思われていた案件が一晩で覆ったり、世界の紛争が突如勃発して仕事に影響が出たり。それに対応するには常にアンテナを広く高く張ること、またスピード感をもって対処することを求められていたそうです。
さらに重要だったのは、「周囲に悟られないように事を進めること」だったそうです。重要事項が漏れたら、大げさに言えば国家が揺れると言ってもいい内容もあるからです。一番、気をつけていたのは「新聞記者に気をつけていました」とのことです。
そんな用心深さは現在の監督業にも生きているそうで、例えばスクイズのサインを出す時。確固たる自信を持って決断し、相手チームに悟られないようにサインを出すことは外務省の時の行動と重なるのと、教訓だそうです。また、外務省での仕事経験が野球部の練習で生かされているのは褒めるという習慣もあるそうです。
「限られた時間なので、1つのプレーを止めていちいち、指摘しているのは時間がもったいない。バッティングも一振りごと、止めてアドバイスしていたら打てる本数が減るし、粗探しばかりしてしまう」
これは神奈川の強豪校の監督と話していて我に返って外務省でのことを思い出したそうです。そうだ、自分も褒めて育ててもらったのだ、と。
「最後にまとめて褒める方が生徒は伸びる。僕も長く時間をかけたら、厳しい小言を言い出すだろうとそこには注意しています。役所でもダメだと言われたら萎縮してしまう。褒められたら伸びていくし、結果を出せた。褒める上司の下で働かせてもらって、いい仕事ができたと思います」
また、部員には次のことを伝えているそうです。
「礼儀と全力プレー。限られた時間、最後の夏まで2年半しかない。全力でやらないともったいないよ」