声なき声とは
表だって声高に語らない人々の意見(三省堂・大辞林)
三百年前の享保六年八月、
八代将軍・吉宗はお触れを出した。
「みずから衆庶の直訴をうけらるる」
という趣旨のもとに
「目安箱」を評定所に置いた。
人民の〝訴状投げ込み箱〟は
世界的にも画期的な試みであり
徳川末期においては
権力者と人民を結ぶ
唯一無二の絆になっていった。
海外では絶対王政が全盛期で
フランスではルイ十五世の支配
ロシアではピョートル一世の支配のもと
奴隷制と重商主義が進められた。
アメリカではフランクリンがいたが
近代デモクラシーと呼ぶには
まだ越えるべき課題が多々あった。
吉宗は、目安箱を重視した。
閣老や側衆でも直に取り扱えないことにした。
訴状を受けた徒目付(かちめつけ)は
箱のまま目付に提出し
目付から側衆を経て、将軍の手に届けられる。
将軍自らカギを外し、おもむろに検覧するのが
定めであった。
白木づくりの箱は
縦45㌢、横75㌢、幅40㌢。
フタの上に10㌢四方の穴を設けていた。
訴状に氏名を記すに及ばず、とされたのは
幕府専横のおりに「氏名を書け」
との定めがあるならば
声なき声を発する者はない、
と見たからだったろう。
制度は幕府にとっても有益であり
明治の新政府も引き継いだ。
ただし明治元年五月より
「姓名明記とせよ」としつつ
ただし法網にはかからない、
と知らせた。
さらに翌年七月になると
「無名の投書は封のまま焼き捨てる」
と決定した。
詰まらない私怨や私利私欲の投書が
激増した、というのが理由である。
目安箱は
明治六年に廃止された。
上書建白は集議院または地方庁に差し出すべし
とされ、下意上達の画期的試みは
これによって閉ざされてしまったのである。
民主主義があらぬ方向に解釈されていく
のはこのあとであり、
悲劇の歴史的必然とみてよいのではあるまいか。
どうして君は
他人の報告を
信じるばかりで
自分の眼で
観察したり
見なかったり
しなかったのですか。
ガリレオ・ガリレイ「天文対話」