【1400年前の「憲法のナゾ」を、それなりになぞるの巻】
■古墳時代から飛鳥時代(6世紀~7世紀前半)に政治の「実権」を握っていたのは、蘇我氏だった。大王(天皇)の「補佐役」として、実際の政治を行う大臣(おおおみ)を出していた有力豪族である。
■天皇となる資格を備えながら、ついに天皇になることができず、49歳でなくなった聖徳太子。新しい国家建設に苦闘した悲劇のプリンスは、のちに数々の伝説が作られ、日本人にとって最も親しみのある人物となった。その思想は、現代政治にも受け継がれている。
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■太子の代表的国内業績は「冠位十二階」と「十七条憲法」の制定である。
■「冠位十二階」は、血統の高い者でなくても、能力の高い者を登用する、現在の官僚制の基礎となる考え方。「姓に代えて位を授ける」という革新的発想によるものだった。
■もう一つは「十七条憲法」。第二条で「篤く三宝を敬え。三宝とは仏と法と僧となり」と教えている。
■人材登用策と宗教政策を、国家統一への双発エンジンにしようとした。
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■太子が描いた身分制度は、一番上が「君」で、他方に「人民」を置いて、その中間に「臣」つまり優秀な官僚を置く。人民はみな王臣である。だから中間搾取をしてはいけない、という正義を貫こうとした。官僚群で構成された政府が、中間的豪族の私的支配を排除して、人民を直接把握して為政することで、理想の国家を目指した。
■しかし国論統一の思想は太子自身の手によるものではなく、半世紀余りも独裁的権力にあった蘇我馬子の政治によって実現させねばならなかった。
■当時の日本は、天皇のもとで、太子と馬子の「二頭立ての馬車」の形式をとっていた。だが、実態は馬子の「一頭立て」であり、政治家としての太子はついに実権を持つことなく、生涯を終えた。
■太子には理想の学究的天賦の才が、馬子には現実の政治的天賦の才があった。理想は理想、現実は現実だった。
■馬子の暴政は、気に入らない天皇を殺害し、意中の有資格者を天皇に据えるほどにエスカレートした。4代の天皇たちの思いはいかばかりだったか、と拝察するのである。
当時の政治状況については、「古事記」「日本書紀」の記述をもとにした正史だけでなく、さまざまな有力異説があることをお含みおきください
そうそう 聖徳太子(厩戸皇子)は仏教で国を
統一しようとした人でしたね・・・
それにしても いつの時代も それを阻む
抵抗勢力が居るっちゅうのは 不思議な事ですね・・・
今は、異人によって 托卵された 宗教団体や
政治屋達って事ですかね・・・
善と悪との攻防戦は この世の法則みたいな
物なのですね~