【碁を打つ女の話 ~ ある霊的体験から の巻】
天明から寛政にかけての江戸・吉原には、
一芸に達した遊女たちが大勢いた。
歌や発句を作る女がいた。
手紙をよく書く女もいた。
琴や三味線、茶の湯、生け花の嗜みのある女は、
数え切れぬほどだったが、そうした中に、
なお一人、変わった女がいた。
扇屋の抱えの唐糸は、碁に長じていたのであった。
唐糸は、内気で物静かだったが、
女たちがおしゃべりしている間にも
部屋に籠って棋譜を手に碁盤に石を置いて
一人愉しんでいる風であった。
時折、その道の人たちをわざわざ招いて碁を囲む。
それを何より愉しいこと、とした。
吉原に碁を打つ女がいる、という評判は
好事の人々の口の端に上るようになり、
やがて幕府の「碁所」の本因坊の耳にも入った。
ある年の春。
人々の誘いで、夜桜見物に出かけた本因坊は、
扇屋に上がり、唐糸を呼んだ。
自分の名前を秘めておくつもりだったが、
唐糸が、うやうやしく挨拶するには
「本因坊先生で入らせられますか、
ようこそお越しくださいました」
本因坊は、密かに舌を巻いた。
唐糸は、碁のことを次々と問い掛ける。
その問いがまた、筋に入っている。
そして「ついこの間、かような品が手に入りました」
といい、やや古びた碁盤を一面、出してきて、見せた。
それがまた、何とも言われぬ、よい盤である。
「これは見事な……」と、本因坊は思わず嘆声を発した。
「よくも、かような盤がありましたな」
そう褒められて、唐糸はいかにも嬉しそうに
「わたくしなどには、分に過ぎた物と思いましたけれど、
見ましたら矢も楯もたまらなくなり、つい求めてしまいました」
見事な盤を前にして
本因坊は、にわかに技癢を感じたらしく、
「では、これで一局」
と自分の方から勧めた。
唐糸は「かたじけないことに存じます」と
少しも悪びれず挨拶して盤に向かった。
周りがざわつき、人が集まり始めた。
唐糸の技量は、
本因坊から見れば、元より言うに足りなかった。
しかし素直な、癖のない碁であった。
本式に修業したら、どこまで上達するか、と思われる。
珍しい女もあったもの、と本因坊は感じざるを得なかった。
思わずも碁に時を過ごして、夜更けて本因坊が帰ろうとするのに
唐糸は、さもさも名残惜しそうに
「どうか、また、これをご縁に」
と何度も繰り返した。
唐糸と碁盤を忘れかねたものの、本因坊はもう中年を過ぎている。
吉原などという所へ、しげしげと足を運ぶのは気が引けた。
そうしているうちに、年が改まった。
碁所(ごどころ) 御城碁の管理や全国の囲碁棋士の総轄を一手に握る棋界の最高権力者。囲碁家元の本因坊家、井上家、安井家、林家の四家にあり、名人の技量を持つことが条件。家康が囲碁を愛好したことにより、将棋所よりも常に上位に位置付けられた。江戸幕府の役職の一つで、寺社奉行の管轄下にして定員1(空位も多い)、50石20人扶持、お目見え以上。
なお、この後で「檀那様」との表現が出てくるが、碁所の地位は、領地を持つ上士扱い。俗に「殿様」と呼ばれるレベルの厚遇だったのである。
(つづく)
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在野の歴史・書誌学者の森銑三(1895~1985年)は
近世の社会・文化を研究し、膨大な著作を残した。
それらは時代小説家の参考史料となったものである。
ここに、没後3年目に発表された不思議な話がある。
実証的研究で知られるだけに実話に近いのだろうか。
舞台は200年余り前の江戸・吉原の遊郭――。
本稿は要旨である。(表記は現代仮名遣いに手直し)
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