「中島みゆき:時代」
よく聞くと言うより、その一節だけを繰り返し想い出す。
♪ そんな時代もあったねと いつか話せる日が来るわ
♪ あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ
♪ だから今日はくよくよしないで 今日の風に吹かれましょう
YuoTubeへのリンク
https://www.youtube.com/watch?v=Ry_bpaKDcAo
まず最初に、何を挙げようか迷ったが・・・
仕事が辛かったあの時代、この詩を、何度も何度も心の中で呟いた。
1998年、2度目の子会社出向から復職した先は「半導体露光装置事業部」の「原価管理グループ」
カメラの仕事を離れたのは、これより以前、初めての子会社出向から復職した1984年3月。
半導体露光装置事業部の前身の精機事業部への復職だった。
カメラの仕事から離れたとはいえ、品質管理部門は専門でもあったので拒否反応は無かった。
しかし、98年の配属は、グループリーダーへの昇格はともかく、カメラメーカーに入社した筈が全くの畑違い。
この配置転換以後の3年間は、次々に降りかかる難題に理解が追い付かず、頭も胃も痛む辛い日々が続いた。
扱っている主力製品である、半導体露光装置(ステッパー)とは・・・
AI社会を劇的に進化させた半導体の、nm(ナノメートル)単位の微細回路を焼き付ける装置である。
原理は写真の引き伸ばし機のようなものだが、信じがたいほどに超・超・超精密装置なのだ。
印画紙に相当するガラスウエハ上に縦横にステップしながら回路原版を1/5~1/10程度に何枚も投影露光する。
販売価格数億から十数億。
装置1台の重量は2トン前後、部品点数:数万点。
0.1℃の狂いも許されないクリーンルームでの組立調整作業が半年近く続く。
そんな化け物のような装置の新製品の原価予測・見積りを行い、
事業部長(時には社長)へのプレゼンを行うのが職務だった。
あらゆる製品には原価がある。
売値との差が利益になる。
原価については、その程度しか興味がなかったが・・・
膨大なデーターを積み上げて原価予測・見積りを行う。
「こんな見積りでは通らない」と、上司から何度も計算し直しを迫られる。
度重なる見積り作業が終るのを待ち、プレゼン資料の作り直しは連日10時過ぎまで続いた。
そもそも作って見なければ何台売れるかなど判らない。
原価が高いからと言って、新製品を出さない訳には行かず、性能を落とす事も出来ない。
ASML・C社との熾烈な開発競争があった。
大事なのは試作性能評価と改善改良。
そんな性能評価も始まらない新製品の見積りに正解などある筈がない。
「見積・原価予測の根拠の明確化と標準化」と言うもっともらしい課題はあったが・・・
事業部長へのプレゼンは一種の通過儀礼に過ぎない。
それを上司の胸先三寸、気に入る数字になるまで作り直させられたのだ。
今で言う「パワハラ」上司だった。
この3年間は、家族にも、殊に女房殿に辛い思いをさせてしまった。
もっと早く辞めてしまえば良かったのかも知れないが・・・
過ぎてみれば、耐えがたきを耐えた石の上の3年、消える事の無い轍。
今でこそ、そんな時代もあったと思える様になったが、懐かしくはない。
収穫は、エクセルとパワーポイントを使いこなせるようになった事。
2001年8月末、3度目の子会社出向辞令をきっかけに早期退職。
幸い、娘たちも学業を終え社会人となっていた。
そして、2年後の知床流氷ツアー・・・心から楽しめた。
よく聞くと言うより、その一節だけを繰り返し想い出す。
♪ そんな時代もあったねと いつか話せる日が来るわ
♪ あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ
♪ だから今日はくよくよしないで 今日の風に吹かれましょう
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まず最初に、何を挙げようか迷ったが・・・
仕事が辛かったあの時代、この詩を、何度も何度も心の中で呟いた。
1998年、2度目の子会社出向から復職した先は「半導体露光装置事業部」の「原価管理グループ」
カメラの仕事を離れたのは、これより以前、初めての子会社出向から復職した1984年3月。
半導体露光装置事業部の前身の精機事業部への復職だった。
カメラの仕事から離れたとはいえ、品質管理部門は専門でもあったので拒否反応は無かった。
しかし、98年の配属は、グループリーダーへの昇格はともかく、カメラメーカーに入社した筈が全くの畑違い。
この配置転換以後の3年間は、次々に降りかかる難題に理解が追い付かず、頭も胃も痛む辛い日々が続いた。
扱っている主力製品である、半導体露光装置(ステッパー)とは・・・
AI社会を劇的に進化させた半導体の、nm(ナノメートル)単位の微細回路を焼き付ける装置である。
原理は写真の引き伸ばし機のようなものだが、信じがたいほどに超・超・超精密装置なのだ。
印画紙に相当するガラスウエハ上に縦横にステップしながら回路原版を1/5~1/10程度に何枚も投影露光する。
販売価格数億から十数億。
装置1台の重量は2トン前後、部品点数:数万点。
0.1℃の狂いも許されないクリーンルームでの組立調整作業が半年近く続く。
そんな化け物のような装置の新製品の原価予測・見積りを行い、
事業部長(時には社長)へのプレゼンを行うのが職務だった。
あらゆる製品には原価がある。
売値との差が利益になる。
原価については、その程度しか興味がなかったが・・・
膨大なデーターを積み上げて原価予測・見積りを行う。
「こんな見積りでは通らない」と、上司から何度も計算し直しを迫られる。
度重なる見積り作業が終るのを待ち、プレゼン資料の作り直しは連日10時過ぎまで続いた。
そもそも作って見なければ何台売れるかなど判らない。
原価が高いからと言って、新製品を出さない訳には行かず、性能を落とす事も出来ない。
ASML・C社との熾烈な開発競争があった。
大事なのは試作性能評価と改善改良。
そんな性能評価も始まらない新製品の見積りに正解などある筈がない。
「見積・原価予測の根拠の明確化と標準化」と言うもっともらしい課題はあったが・・・
事業部長へのプレゼンは一種の通過儀礼に過ぎない。
それを上司の胸先三寸、気に入る数字になるまで作り直させられたのだ。
今で言う「パワハラ」上司だった。
この3年間は、家族にも、殊に女房殿に辛い思いをさせてしまった。
もっと早く辞めてしまえば良かったのかも知れないが・・・
過ぎてみれば、耐えがたきを耐えた石の上の3年、消える事の無い轍。
今でこそ、そんな時代もあったと思える様になったが、懐かしくはない。
収穫は、エクセルとパワーポイントを使いこなせるようになった事。
2001年8月末、3度目の子会社出向辞令をきっかけに早期退職。
幸い、娘たちも学業を終え社会人となっていた。
そして、2年後の知床流氷ツアー・・・心から楽しめた。