戌年の年賀状 エコ仕様
年賀状が完成しました。ご自由にお使い下さい。
全面カラーのバックだと、プリンターのインクがものすごい勢いで減るので○で囲みました。
年賀状集(クリックすると大きくなります)
戌年の年賀状 エコ仕様
年賀状が完成しました。ご自由にお使い下さい。
全面カラーのバックだと、プリンターのインクがものすごい勢いで減るので○で囲みました。
年賀状集(クリックすると大きくなります)
例年通り、戌年の年賀状の原稿をUPしました。ご自由にお使いください。
ご自由に年賀状に仕上げて下さい。
僕の年賀は下記にします。
頌春
ワンコは安産と多産のシンボル。
少子対策の教育無償化ってホンマに出来るん?
ゆ~たからにはやってもらいまひょ。しっかり見させてもらいますわ。
「食い逃げは許しまへんで!」
★尚このページは松が取れ次第、本来のページに差し替えます。
年賀状集(クリックすると大きくなります)
午年の年賀状をUPしました。ご自由にお使い下さい。
☆ポルウナカベーサ
横に絵だけのバージョン。クリックすると大きくなります。
☆冬理と木馬
過去の年賀状(クリックすると大きくなります)
頭が「馬」体が「鹿」のバージョンもあります。ご自由に使い下さい。
左より「やめときなはれnext」「やめときなはれextra」「燃えちまったぜ」
★年末につき「ビールの絵」関連はお休みです。来年も宜しく。
昨年は本業に追われっぱなしで、パステル風景画は描けませんでした。頂相の傍ら少しずつ五年掛かりで描いていた涅槃図(約100号)を、完成させる約束のラストの年で、やっと描き上げて東北の被災地のお寺に納品させて頂きました。近々新作をオフィシャルサイトへUPします。頂相も涅槃図等仏画類も難易度をどんどん高くしていて時間に追われっぱなしです。(Webデザイナーが海外出張へ出かけて,オフィシャルの更新は遅れそうです。その分ブログは頑張ります。2012.1.20)
このパステル画は「自坊の風景を」と言うお寺の注文で描いたシリーズの一枚です。全くの未発表です。
e-mail: tinsoh@yahoo.co.jp
雪の境内
手に取れば皆同じ白い色なのに、積もる所によって雪は様々な表情を見せる。白ウサギの背の様であったり、シャボンのあぶく、餅花、みぞれのかき氷、お嫁さんの綿帽子etc・・・。
階調を追ってパステルを重ねる。手の切れそうな冷たいブルー、沈んだグレー、ほっと明かりが内からさしている様なピンク。しかし気分が変わればピンクが淡いブルーに見えたり、雪は「心模様」を照らし出す。(パステル画)
パステル画・忘れ得ぬ人々は、忘れ得ぬ風景の中に居る
幽霊さんよ出でよ。人魂さん、にぎやかに乱舞して頂戴。
東日本大震災の今こそ自らの存在を現す時。
どんな形になっていたとしても、もう一度だけ大切な人の前に姿を見せに来て下さい。
new 春の風景を沢山追加しました。 2011.9.29
霊雲院国際禅交流友好協会(IZEFA)へリンク。
京都iroiroへリンク。
e-mail: tinsoh@yahoo.co.jp
辰年の年賀状をUPしました。自由にお使い下さい。
*絵だけのバージョンを追加しました。文を入れて貴方の年賀状に仕上げて下さい。
過去の年賀状(画面をクリックすると大きくなります) 絵だけのバージョン
この絵は絵描きも駆け出しの頃、知人の依頼で模写したもの。しかしついぞ、知人が現れる事は無かった。画料も確か五万円で引き受けたと思うが、当時の10万円もあれば夫婦二人、一月生活できる時代では大金である.
これを描いた頃の記憶は今でも鮮明。水彩絵具の防腐剤のツンとくる匂いが、小学生の写生会を思い起こさせ「こんな気持ちで絵が描けたら・・」と原点に戻った様な、妙に神妙な気になれた。難しい技法で「意味ありげーで無さそーで・・・」といったシュールな絵も描いていた頃、ありきたりの画材で「普通の風景を画板を持って写生に出かける」事の方が、演出された個性を追うより「僕らしく」思えた。
暫くは本業を確立する事が一番で実現は不能だったが、後年「花園」に風景画を描く「心の原点」になった様に思う。
newこちらにステンドグラスの風景を沢山載せています. 2011年9月6日
9月のアトリエ ・パステル画 2011年9月2日
「上ノアトリエニ居リマス」からの続き。妻は「貧宅を公開せんといて」と言うが、京長屋を直して住み続ける方が、偽サイディングやプリント合板のプラモデルの様な家よりずっと良いと思うのだが。資産価値よりも断然住み心地優先である。そして気の置けない町内も「お気に入り」。露路を出ると「鯖街道」が通る。
我が屋自慢
ここに住んでもう30年。我が家は最初は借家として借りた家であった。あまりのボロさに妻はヘナヘナとへたり込んでしまったが、僕はそれまでのアパートと違い「地べたから立っている家」に住める事が嬉しかった。当時、家を借りるのはマンションよりも遥かに難しい。
後に購入して、勝手気ままに直した。もちろん大工さんに頼んでだが。旧材はマッチ棒一つ表に出ない様にハリボテをして、しかし露出木部は全て無垢材、懐かしい真鍮のドアノブ、アルミサッシは極力使わない、妻の手作りステンドグラスがアッチコッチにはまっている。
後に3階建てにして、ロフトも入れれば床面積は130平米はある筈。南と東にマンションが建って「谷間の我が家」となったが、毎夏の猛暑でも一階は30°までしか上がらない。太陽光発電も付けて二重にエコ住宅である。
子供達が巣立って、一人で何室でも使えるが、結局同じ十畳間が我がアトリエ。
*「花園」にこの絵を載せたのは、僕を大先生と思って訪ねて来られて、ガッカリされるので、 あらかじめ「断り」をいれる為。もう一つ「露地を出ると焼き芋屋がいた」も同じ目的で描いたもの。 我が町内は「鐘紡」の城下町だったところ。鯖街道を挟む様に櫛形に露地が伸び、長屋群が建ち並んでいた。我家も平社員用社宅だったらしいが、戦後の土地改革で住民に払い下げになり、 ずっと後に我がものとなった。こういった露地は今は殆どがマンションとなり、町内でも2,3カ所を残すばかりとなってしまった。