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発見が常識を覆す、覆った常識が時代を変える、変わった時代が人間と政治を変える

政治は知恵を出せ
政治家よ常識を変える発見をしろ
政治家よ時代と人間を変えろ
政治は誰にでも出来る物ではない

第五話 生きていた義経 兄弟喧嘩” 後編

2007年12月07日 | Weblog


戦争:治承・寿永の乱
年月日:1185年(元暦2年/寿永4年)3月24日
場所:長門国 赤間関壇ノ浦 (現 下関市)
結果:源氏軍の勝利




頼朝と義経の兄弟喧嘩・・・・・・・
これは・・義経の陰謀だった・・・・
兄弟喧嘩に義経の策略がそこにあった・・・
この策略は・・義経が・・窮地に追い込まれた・・
それを逆手に取った・・切り替えした策だ・・
義経は・・どんな窮地に陥ったのか?・
それは・・暗殺だった・・
義経さえいなければ・・・義経にくし・・・

平家の恨みは・・華々しい手柄を立てた者に・・
襲い掛かる・・・
女に化けて・・家来に扮装して・・第三者のふりをして・・
突然襲い掛かってくる・・・

平家は滅亡したとはいえ・・京にも・・近在の郷にも
血筋を引くものは大勢いる・・・
頼朝が頼りにした妻も北条・・平家筋だ・・

義経は家族と自分を守る為に死んだふりをしたのだ・・
兄と共謀して・・・・

義経が死んだ・・・情報は全国に走る・・・
これを聞いて・・平家が集合を始めると・・
もう一度・・生き返って・・平家を叩く・・・

落人が義経は死んだ・・「それでよい」・・
納得すれば・・・義経も・・生き返ることは無い・・

平家は・・二度と・・兵を集めることは無かった・・・

第四話 生きていた義経 兄弟喧嘩” 前編

2007年12月05日 | Weblog


左が義経      右が家康
義経の肖像画は東北の藤原氏の所で書いた物・・
本人と全く別人に書かれている・・追われるものの策略・・
義経の母は常盤御前・・絶世の美女・・美人の母を持つ
男がこんな不細工とは考えられない・・・
美人ゆえに・・平清盛も自分の女にして・・殺せなかった
それが・・平家の・滅亡につながるのですから・・・
美人は・・まさに傾城とはよく言ったものです。・・


家康の肖像画は・・三方が原の敗戦の折に書いた物・・
信玄に完膚な負け戦・・糞を垂れ流して命からがら
逃げた・・戒めとして書いた物・・
徳川家康本人には・・全く似てませんよね!”



兄弟喧嘩といえば・・若貴兄弟が有名ですね・・
兄弟は他人の始まり・・という見本ですね・・

しかし、頼朝と義経は他人から始まっている。
兄弟喧嘩を治める基本は・・
弟が先に謝る・・すると・・納まる
兄も・・「悪かった”ごめん」・・と

義経は・・・
「政治の事は・・全て・兄上にお任せします
 私には・・豊後の国を一国分けてください」・・・

おそらく・・これで・・喧嘩は納まったはずです・・

平家を追悼した功績は・・輝いてますから・・
頼朝もいやとは言わぬはずです・・

豊後の国は位置的に重要な場所ですから・・
しかも弟ですから・・・
「名前を変えて・・行け」

条件を付けたでしょうね・・

涙を流して対面した・・
あの時の心をお互いに忘れてなかった・・・

義経は・・素直な男だった・・
弁慶より親しい友も身内もいない男が・・
国を支配出切る筈がありませんから・・・
借り物の軍隊では・・張子のトラです・・
そのくらいの知識と教養のある男ですから・・


壇ノ浦の戦いに周到な準備をした男ですからね・・
とにかく・・自分で調べて策を練る人物です・・
だから・・軍略の天才なのです・・

第三話 生きていた義経 豊後(大分県)の国

2007年12月03日 | Weblog
豊後の国(大分県)・・
眠っていた男が立ち上がろうと・・してるような国だ

ところで・・なぜ?義経は豊後を選んだ?・・・・

それは・・歴史の・・時代の流れだった・・・・

歴史の好きな方はご存知だろう・・
そこで・・義経は策略を練った・・
平家は壇ノ浦の合戦で敗れた・・・
しかし・・平家は全滅したわけではない・・
大勢・・生き残った・・昔の合戦はそんなものだ・・
そこで・・「治にいて乱を忘れず」

天皇の恩賞を願った・・・・
平家を追悼した恩賞を・・・
そして3つの国を得た・・豊後・伊予・伊豆・・
なぜ?・・3つの国か?
天皇はなぜ? 
納得したか・・・
理由は・・大義銘文・・
大きな目的と・・・心を打つもの・・
大儀・・「治にいて乱を忘れず」
壇ノ浦で平家を破ったものの全滅したわけではない・・
だから、平家を見張る為に源氏の拠点を求めた・・
本州は伊豆に・九州は豊後に・四国は伊予に・・

銘文・・平家を追悼した源氏は三兄弟・・
    兄弟に一つずつ・・・・

伊豆は頼朝・・
豊後は義経
伊予は範頼  
本州・九州・四国に平家の残党を見張る為に・・
後は歴史が・・示す・・

伊予は範頼・・範頼は凡人だ普通の男だ・・

普通の男は凡人は、いくら、命を掛けても歴史には残らない
歴史の藻屑に消えてしまった・・・
名前を変えられたら・・行方不明になっていく・・

しかし・・義経は・・大友能直の名を歴史に残した・・
才能のある男は・・その名を歴史に残す・・

第二話 生きていた義経  名前”!後編

2007年12月03日 | Weblog



京都にある・・神護寺・・文覚上人の開いた寺


大友能直・・・前半の人生の空白・・・
この穴を・・義経の人生を埋めたら・・・

享年・・63歳・・決して不可能のトシではあるまい・・

大友氏・・21代・・大友宗麟までの400年間
豊後を支配し・・九州探題・・の重職・・

その礎を築いた・・人物・・
さらに・・著書もある・・

さて・・その名前だが・・・
この名は・・死んだ人物に付けた・・戒名だ・・
見る人が見れば・・・・・・・
あ~~・・こいつが・・・義経か・・・とわかる・・

おそらく・・坊主がつけたのであろう!”
誰が?・・・・・・
思い当たるのは・・・文覚上人・・・だ・・
この坊主・・源頼朝と親交があり・・寺まで寄進されておる
手柄を立てた・・御褒美に・・

手柄とは・・・義経が生きてることを知ると共に・・
義経の手紙の連絡役を勤めていた・・・
それと・・義経の名付け親・・だ

「親よりも・・友よりも・・・
さらに、大いなる友は・・・兄弟である・・
才能・・豊かにあふれ・・・
義に熱く・・・
真っ正直な男」・・・・・・・・・義経

友は・・頼朝のとも
能は・・義経のよしと読ませている・・・

兄弟の文字を植え込んだ・・素晴らしい哲学・・・
兄弟は他人の始まり・・と世間で言うが・・
この兄弟・・他人から始まった・・・
親は居ない・・・そして・・友もいない・・
親以上・・友以上の友になれと・・・・・・・

文覚上人の哲学・・・
もし・・仮に・・否定するならば・・・

これは・・私の哲学で・・・
著作権は・・・私のものだ・・・

一話で義直・・訂正・・能直でした・

後 書 き

2007年12月02日 | Weblog
以前から幻の国邪馬台国の謎に興味を持っていた・・・
なぜ? 消えたのか?・・
結論として・・組織を持たない新興宗教ではなかったかと?
教祖一人に信者100万人・・・・
そして・・カリスマは3代と続かなかった・
組織が出来上がれば、
カリスマは消えても組織は残るが無ければ・・・解散”で終わる・・
まさに”邪馬台国は、解散した”!
残る興味は・・卑弥呼の興味!”
なぜ?魏に使いを出した?
大和朝廷との関係?

ネタが・・尽きた  源義経は生きていた!”

2007年12月01日 | Weblog

八艘飛びの義経
私は発想飛び


あふれる思いが・・・止まった・・卑弥呼・・

何を書こう”・・

歴史物では・・生きていた「義経”」

え”・・義経は・・死んだはずでは・・・・
(そう”思ってる貴方は・・平家の落人の感覚です)

ところが・・どっこい”・・しぶとい義経・・

物的証拠は無いが・・状況証拠は十分にある・・・

軍略の天才・・何を持って「軍略の天才というか?」

それは・・「どんな手を使ったら・・自分は生き残れるか
      それが、簡単に思いつく・・・・・
      自分の・・家族の身に危機が迫ったときにも・・
      思い浮かぶ・・迷わず・・実行した」

私だったら・・こんな手を使う・と思ったら・・

義経は・・実行してた・・・

私は五十に手が届こうとした頃に・・気が付いたが・・

義経は・・二十歳そこそこで・・若造が(失礼)実行してた・・

やはり・・天才だった・・・

さて・・どういう風に説明したら、わかってくれるだろうか?

話は・・長くなるが・・・・

源義経・・・大友義直・・出世魚の名前変えから行くか・・